どうして読む人に分ると思えるものかって、いつもいってやるのさ。
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 良寛《りょうかん》が否認する料理屋の料理とか、書家の書歌|詠《よ》みの歌の意は、小生《しょうせい》、双手《もろて》を挙げて同感するが、世人は一向反省の色を見せない。世人の多くは真剣にものを考えないとしか考えられない。
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 それにはそれの訳がある。もともと料理には無理がある。
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 貧しき人々が貧しき人々の好みの料理をする。これはマッチしていて苦情はない。
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 貧しき人々が富める人々の食事に手を出すでは、うまくマッチしない。
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 貧しき人々と富める人々の中間に在る人々の料理は、まず貧しき人々の手になるであろうが辛抱《しんぼう》の出来るところ、出来なくてもしようはない。
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 富める人はなんとしても貧しき人々の手で出来た料理を口にする以外に道はない。貴婦人は台所で立ち働く習慣がないからだ。
 明治の元勲《げんくん》井上侯のように、あるいはアイゼンハウワーのように、来賓《らいひん》に供する料理は必ず自分でつくる、あるいは監督もする、献立《こんだて》はもちろん
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