しなくてはならぬ。飯のよしあし、また飯と平行して、煮だしこぶのよしあし、これを果してどのくらい知っている人があるだろうか?
 美食は物知りになることではない。もっともよく使われる、手近な、料理の原料になる、これらのものを正当に知らなくてはならぬ。
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 わさびもどこで採《と》れた、どのくらいの大きいものがいい、というようなことは誰でもよく話すことである。だが、どんなわさびおろしで、どんなふうにおろすのか知っている人は、存外|玄人《くろうと》の中にすら少ないものである。
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 そういえば、台所道具がどこの家もなっていない。よく切れるいい庖丁《ほうちょう》、大根おろし、わけてもかつおぶしを削る鉋《かんな》のごとき、どれも清潔で、おのおの充分の用に耐えるべき品が用意されていないように思う。
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 いいかね、料理は悟ることだよ、拵《こしら》えることではないんだ。名人の料理人というものはみなそれなんだね。
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 今日《こんにち》の料理界なんてものは、ほかの世界に較《くら》べたら、底が知れている。料理界には穴があるんだ。あるといえばあるが、しかし、ほんとうのことはわからん。仮にいってみればあるというだけでね。要は、料理のために料理のことを知る、それよりほかに手はない。そうしてほかの先生を仔細《しさい》に検討してみるといい。
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 わさびの味が分っては身代《しんだい》は持てぬ。
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 栄養を待っている肉体に要求がなくなれば、美味にあらず効果もなし。
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 外人でも日本人でも、料理を心底《しんそこ》から楽しんではいないようだ。味覚を楽しみたい心は持っているが、真から楽しめる料理は料理屋にも家庭にもないからであるらしい。栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履《は》き違えをしているらしい。
 えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監《しゅうかん》されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。
 好きなものばかりを食いつづけて行くことだ。好きなものでなければ食わぬと、決めてかかることが理想的である。
 鶏《にわとり》や飼犬のような宛《あ》てがいの料理は真の栄養にはな
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