らない。自由人には医者がいうような偏食の弊《へい》はない。偏食が災いするまでには、口のほうで飽《あ》きが来て、転食するから心配はない。
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 売ることを目的としてつくった料理が料理として発達し、日本料理の名をなしている。また一面、富豪《ふごう》が多数の来賓《らいひん》を招いて饗宴《きょうえん》する料理、体裁を主とした装飾料理があって、これもまた一種の日本料理として早くから発達し、その存在が許されている。
 このほかに庶民が日常食として親しみを持つ郷土料理があって、これをお惣菜《そうざい》と呼び、日本食の代表的な地位を占め、日本人一億人ありとせば、九千五百万人はお惣菜という簡易日本料理によって生活し、これはこれなりに、愚《おろ》かながらも旧来の食に楽しみをもっているようである。
 しかし、万人《ばんにん》が日常食とするお惣菜料理の大部分は、あきらめの料理であって気の毒である。高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣をあり難《がた》いものにして、自分たちはこれでよいのだとあきらめているからである。
 これにつけ込んだというわけでもあるまい、放送料理という困った料理放送が続いている。
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 美味《うま》い不味《まず》いは無意味に成り立っているものではない。栄養の的確なバロメーターである。
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 料理は自然を素材にし、人間の一番原始的な本能を充《み》たしながら、その技術をほとんど芸術にまで高めている。
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「人はその食するところのもの」と、ブリア・サヴァラン(『味覚の生理学』の著者)はいっている。その人の生活と、大きく考えれば人生に対する態度が窺《うかが》われる。
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 ほんとうにものの味がわかるためには、あくまで食ってみなければならない。ずっとつづけて食っているうちに、必ず一度はその食品がいやになる。一種の飽《あ》きが来る。この飽きが来た時になって、初めてそのものの味がはっきり分るものだ。
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 料理の本義といったところで、別段むずかしいことはない。要するに美味《うま》いものを食うことである。しかし、美味いものといっても、値段の高い安いには関係がない。美味いものといえば、工夫によると思う者もあるだろうが、工夫だけでもだめだ。
 料理のよしあしは、まず材料のよしあしいかんによる。材料の選択次第である。だから、
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