料理するならば、文句なしに美味いと決っているのである。それが場ちがいのもので、しかも古びた、さかなでいうなら、色の褪《あ》せた、臭気《しゅうき》のあるようなものでは、いかに腕のある料理人でも、どうしたって美味くはならないものである。野菜にしても、萎《しな》びて精気を欠いていては、味も香気もなく、ただもうつまらない食物にしかならないのである。こう考えて物が判《わか》るとき、材料のことをまず第一に心がけねばならぬ必要が起こるのである。材料の良否を心がけると同時に、次には材料の見分けがしかと掴《つか》めなくてはならないのである。
それには経験が充分できていないと、材料を目前にして、よしあしが分らないであろうから、買い物学とでもいう買いものの苦労を重ねなくてはならないのである。例えば婦人が呉服ものの選択に苦労するようにである。見れども見えず、食えどもその味が分らないというようでは、料理を拵《こしら》える資格もなければ、食う資格もないわけである。材料の良否は人の賢愚《けんぐ》善悪にも等しいもので、腐ったようなさかな、あるいは季節はずれの脂《あぶら》っ気《け》を失ったさかななどは、魂の腐った人間に比すこともできれば、低能あるいは不良に比すべきもので、優れた教育家の苦心が払われたとしても、その成果はおぼつかないものであると同様である。
ことに食物の材料は、さかなひと切れにしても、だいこん一本にしても、同じ値段で相当良否の別がある場合が間々《まま》あるのであるから、まず物を見てよいと認識して後、はじめて買いものをする習慣をつけることが肝要である。男なら酒のよしあしをやかましくいう酒|呑《の》みのように、ものの吟味《ぎんみ》を注意深くするようになれば、料理のよしあしが語れるわけである。そこで概念的に考えねばならぬことは、値段の安いものは概《がい》して下《くだ》らぬものが多く、値段が高いものは総じて品物がよいということである。それは何物でもある。ただし、掘り出しものは別である。それはいうまでもない。
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誰でもふつうに、商売人の手になった料理は、美味いものかのように考えるが誤認である。なるほど、商売人は料理の玄人《くろうと》である。しかし、玄人はいろいろの条件において料理をする。第一に値段を考えて料理をするであろう。邪道《じゃどう》であるけれども、商売上であれば、採算の
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