《もんめ》のところがちょうど美味本位に当たるので、一貫目から一貫目以上になると、非常に味が大味《おおあじ》になります。しかし、味はたとえ落ちても、大きいたいの頭《かしら》を兜《かぶと》蒸しなどに使うのは立派でいいでしょうが、実際からいいますと、やはり、美味《うま》くありません。大きいのは形と色彩がよくて感じは立派だが、味は論になりません。それならば小振りのものが味がよいといって、小さいものばかりに決めるかといえば、たびたびのことになると、そうばかりにいかない。ただなにごとも単純ではいかないのであります。こういうことについては、なにもかも一応知って苦労をしておき、そして、機宜《きぎ》の処置がとれなくてはいけません。
 もともと美味いものは、どうしても材料によるので、材料が悪ければ、どんな腕のある料理人だって、どうすることも出来ません。里芋《さといも》でいっても、ゴリゴリした芋だったら、どんな煮方《にかた》をしたって、料理人の手に負い切れないのです。さかなにしても脂《あぶら》っ気《け》のないものは、それこそ煮ても焼いても、バターを付けようと雲丹《うに》を塗ろうと、どんなにしたってものになりません。材料を精選するということの大切なゆえんであります。この材料を見分けることは、なかなか容易なことではなく、むずかしいことですが、注意の修練、勘《かん》によってできますものであります。悪材を持った場合、まあなんとかなるというような、ぼんやりした考えではよい料理はできません。

原料の原味を殺すな
 原料の原味を殺さないのが料理のコツのひとつであります。きゅうりならきゅうり、そらまめならそらまめに、それぞれの持ち味があるのですから、その持って生まれた味を殺さないように工夫しなければなりません。小芋《こいも》の味ひとつにしたって、人の力ではどうにもできないのでありますから、持ち味を生かすということは、とりもなおさず、生きたよい材料を扱うということになるのであります。例えば湯豆腐を拵《こしら》えるにしても、その豆腐のよいものを探し当てねばならない。それでなくって、醤油《しょうゆ》だ、薬味《やくみ》だといって、それらにばかりやかましくいったところで、もちろん、それもやかましくいわねばなりませんが、それら工夫のことは第二義のことで、それよりも豆腐の吟味《ぎんみ》が第一義なのであります。材料の
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