美術家ならあんなよいものを見に行かずにはおられまいと思うが、果たして見に行くかと思うと見に行かない。それはなぜかというと、彼等はこれを見てもおもしろくない。感興が湧かないからである。なぜおもしろくないかといえば、ああいう本当の美術品を鑑賞する力がない。見ても分らないからである。われわれが無理に連れて行っても分らぬものはおもしろくないのだ。美術家がすでにそうだから、その門人たちもまず見ない。自分で進んで見に来るものはともかく、先生に勧められて見に来るものなどはまずないのである。しかるにすぐその前にある帝展はどうか、その方はわんさと押しかけている。つまらぬものを見たがるものだと思うが、これは飯の種に関係するから行くのである。骨身になるはずの博物館の方へ行く美術家は実に寥々《りょうりょう》たるものがある。むしろ専門家でない愛好者が見に行っている。
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この風潮は料理界になれば一層ひどく、ほとんど始末に終えない。しかし考えれば、豈《あに》ひとり料理界のみならんや。正月にはどこの家でも花を生けるのは、いうまでもなく自然の美を取り入れ、自然の趣を取り入れることである。しかるに、
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