を解せないからである。わからないからである。床の掛け物にしてもそのとおり。古画を掛ければ偽物を飾り、新画を掛ければ下らないものを並べたてる。筋が通っていないのである。これらは料理を盛る食器にしてもまたそのとおり。要するに料理屋の主人なる者が、美術的に鑑賞する力がないからである。中には騙されて高い金を出し、偽物の画など掴まされて得々としているのもある。
このことは彼等の風采《ふうさい》において符節を合わしている。イキとかイナセとかいう低級俗悪な趣味があって、男のくせに着物に何百円と金をかけてみたり、下駄《げた》に二十円、三十円と金をかけてみたりして得意になっている。そしてあぐらでもかいた時に、金のかかった着物の裏とか、長襦袢《ながじゅばん》の袖《そで》とかいうものを見せるのを無上の喜びとしている。することなすことが愚にもつかぬことばかり、すべてこのとおり。そしてバクチを打ち競馬をやる。こういう状態だから、彼等の料理がまた従って、料理の本調子というものをまったく忘れたいわばイキな料理、イナセな料理、偽物料理に走っているのも当然である。
先頃三越に料理展覧会なるものがあった。どんなものか
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