それを命とせざるものは、まずないのである。これらを研究し、それを理解すべく努力し、古人の源意を洞察し、終に古人に学ぶところ多しと、われを捨て茶事の功徳にぬかずくまでに至ってこそ、開眼の念願は達し得られるのである。
 にもかかわらず、この軌道の上に一念を任さんとする者なく、その結果として今日、茶に親しむこと十年を誇る者たち、百人を集めて十人の眼利きはむずかしいといえよう。茶道の落莫を物語るではないか。千人を集めて、五十人さえあやしいであろう。お茶全盛の今日、百万人茶を嗜む者ありとして十万人はおろか、五万、三万の眼利きさえ見出し難いであろう。これがみな近来の職業茶人に因由するといってはおだやかでないが、詮議の終局は、お師匠さんへ責任を持ち込む以外、ところを得さしめぬようである。重ね重ねであるが、審美開眼あってこそ、茶の楽しみは本格である。群盲象を撫して、一生をその儘に過すなどは名誉ある趣味人とはいえまい。
 しかし、それはそれたりに、なんらか学ぶところもあろうが、かような盲学問をもって能事となすは邪道である。いかに学者ではあっても、塙保己一では、茶人の仲間入りは不可能である。美を解するにな
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