くてはかなわぬ審美の眼を欠いているからである。主客五、六人の群盲組が、初等生訓練に一生を費してみたとて、茶の本道に分け入れる日はおぼつかない。初等生をもって、書画道具一式代用品では、個人の学問に資する足がかりは、いつになってもないわけである。
 かようにまで私がジリジリし、じれったがるゆえんのものは、いやしくも茶の道を探って見んとした各人の初一念というものがあり、その動機は清澄にして、美妙なものであったはずだからである。それが中途半端な指導に災わいされて、道ならざる道へとすべり込む多数の例が歎かわしい。半歳、一年のお茶のお稽古は嫁入り道具という道具の名称と下落し、近頃の猿どもが電車動かして感心さしている程度のものである。



底本:「日本の名随筆24 茶」作品社
   1984(昭和59)年10月25日第1刷発行
   1999(平成11)年7月10日第22刷発行
底本の親本:「魯山人著作集 第一巻」五月書房
   1980(昭和55)年10月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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