茶を語らんとするがごときは、相想わざるもはなはだしきものであって、あまりにも道は遠いのではなかろうか。しかも私は、貴賤を問わず本格の茶に入り得られるという論者であることも申し添えておきたい。
 私が他処眼《よそめ》をはばかるほど、イラついて、お茶に浸る人々をとらえ、とまれ美的感覚の向上をうながすゆえんのものは、総合美の構想になった芸術の発見、それを中心に茶人としての勉強をして貰いたいからである。
 完成したお茶事の構想から審美の感覚をのけものにしては、お茶道は全部崩れもすれば嘘にもなるのである。まったく無意義なものになり、堕し切ってしまうのである。ためにある種の卑俗茶と悪化し、風趣高かるべきせっかくのお茶事を、めちゃめちゃに歪め、俗臭紛々、世の末を思わし、心ある者をして、嘆息せしめざるを得ないのである。かくのごとくして、迷信的とも見うる茶道の廃墟に松風を求めて祈るさまは、それが純情可憐な乙女達の多数を占めるだけに、気の毒でならぬ。

 およそ茶に関係のあるものにして、切り離すべからざるものに、家屋があり、庭園があり、書画道具の類があり、いずれ一つとして、三百年前に見立てられた美術思想、
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