ても、コーヒー化した茶の粉であり、紅茶化した一種の新飲料であって、茶道精神、茶道趣味とは縁の遠いものである。コーヒーや紅茶飲ますばかりに、つまらぬ真似してお茶の作法など利用されては誰もが迷惑しよう。
にもかかわらず、お茶が全盛をきわめ、流行を続けているゆえんは、何一つ理解するところなく、ただちに点茶にとりかかる人々の勘違いが原因していることもあげられるが、勘違いさせているとも見られる遊芸人にも似た職業人の責任も軽く見るわけにはゆかない。他愛ない職業茶人、一部の遊芸人化した宗匠等々が、あまりに数多く現われ過ぎ、表、裏、官体と稼ぎ過ぎる風潮にも原因する。
いまさら職業茶人なる方々のいずれにも、うまい茶杓を削れの、竹花入れを切ってみよとまではあえて迫ろうとしないが幅物書く力はなくも、古幅の真偽もだいたいわかり道具にも一通りは眼利きである。望まれれば、茶人らしく箱書ぐらいは俗書を脱して楽しみとなる字が書けるまでに至ってこそ当然なりとなって来るではないか。
私はいま、茶人らしき字と語ってみたが、これは偽りものや、悟入なき者には、近寄り難いもののようであって、書道をきわめた上の悟人ある人物か
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