がこの道の現実である。
懐中の空白を意とせず、われに眼力ありとばかり道具屋並列の町々は、常に賑わっている。しかし眼力派なる者も挙句の果ては、争うべくもなくボロ買いへと落ち込み、怪しき茶碗に生涯のよろこびを托し、悪悟りにすましこんでいる例少なしとしない。が、それはそれとして今日のように、一個の茶道具が何万、何十万と決ってしまっては、無産階級は残念ながら、斯界から手を引き断念する以外に道はないようである。
名幅を、名器をと羅列せざる茶は、まったく茶道に背くものであるという私の持論からいえば、プロの立ち寄る場所でないことになるのである。
茶の世界によって古人の心を学び、茶道に情操を養い、茶技に興じ、いわゆる奥床しき人たらんとするには、茶道が作ってくれた美術総合大学に入門し、生涯かけて勉強する覚悟が必須的条件となる。そうなってみると、その教材資料が容易ではない。まず名だたる名幅、名器、等々を教室へと持ち運ばねばならぬ。これらが茶道を教うる先生となるからである。もし名器名幅を具えざる茶道学校があり得るとすれば、それは渇を医する飲料を教うる栄養学校であるかも知れない。茶の粉に変わりはないとし
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北大路 魯山人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング