を足がかりとしておるお茶人との交遊は、はなはだ縁の遠いものであることをなんとしても悟ってかからねばならぬと、私は警告しておいた。
 いわゆるお茶人たちが垂涎おかない茶道具といえば、まず三世紀前の人によって作られたものと考えておいて間違いはない。誰が作ったとしてもたいていは美作である。素人の作った茶杓、茶碗、竹花入れの類もおよそ今日に遺って珍重されているのは、いずれも美術価値を持ち、芸術価値を備えて茶道の魅力となっている。
 それならこそ、眼の利く者から見ては、たまらないのである。みずから専有欲の湧き起こる主観を禁じ得ぬまでに食指は動き、心中は波打つものである。それが売り立て市にでも出るとなっては、どうしようもなく、物持つ人の手にと移り行ってしまうのである。無産者の中にいかなる具眼の士あろうと、好事者が潜んでいようとも神様は知らん顔である。
 しかし、たまには一驚に価するがごとき落ち洩れもあって、某が何々をクズ屋の店に掘り出したなどと人の噂に尾鰭もついて、一潟千里に流れ歩くこともしばしばあり、しかるべき人物までが、ガラクタ屋の店頭に怪しい眼を光らしている珍風景が、常に跡をたたないというの
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