であるがごと、窯業芸術となってははなはだ解し難い腕前を有する人といわざるを得ない。
しかも、ものは分ったから出来るとはかぎらない。否分ったからとて出来るものではないのである。分るということと出来るということは別問題であるといってもよいくらいのものである。
如上の各家が勘違いをされたのは、とりもなおさずこの一点に存すると考えられないことはないのである。譬えるまでもなく、仮に墨跡が分る具眼者であるとしても自己に能書ありとはかぎらない。牧谿が分る、梁楷《りょうかい》に合点がゆくとしても自己に描けるものではない。
前山翁の場合のように自己が仁清に理解あるつもりだからとて、ただ単に工人を自家に呼んだだけで仁清が再現するものではない。自己そのものの天分が仁清と同じであって、しかして自己がみずから製作せざるかぎり仁清は再び生まれ出づるものではないのである。況や製陶上の概念知識さえも有しないズブの素人に雇傭《こよう》さるる工人、一美校生などの日給から仁清は生まれ出づるわけのものではないのである。さるにもかかわらず、自己の一挙手一投足に成功を簡単に夢見るごときは、実に傍若無人の暴案といわざるを得な
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