もし料理人に心があったら、たとえ牛蒡の一片にしても、うまく処理して、まったく別の珍味として食べることを考えるべきだろう。残らず捨て去ってしまったり、珍味だということをなんにも知らない輩《やから》に、むしゃむしゃ食べさせてしまうのはもったいないかぎりである。甘だいの骨一つにしても、犬にやるとか、残飯を干飯《ほしいい》にするとか、方法はいくらもあろう。
料理人はせっかく手がけたものが充分食べられなかったり、手がつけられなかったりした場合は、もう一ぺんこれを生かして、自分達の味覚研究として、試食するくらいの機転がなくてはならない。経済的にいっても、もとよりの話であるが、料理人は料理で身すぎをする人間だ。いい材料を使って、手塩にかけたものが客の腹加減から用を足さないで戻ってきた場合、またもう一度これを生かす工夫に心して、自分たちの同僚のもので、試食研修してみるくらいの興味を持たなくては失格である。料理人は料理で僅少《きんしょう》な金を得る生活よりも、ひたすら料理に興味を持ち続けることの方が幸福ではなかろうか。
繁忙の時でなければ残肴の姿は見えない。残肴が姿を出すような忙しい時は、料理人は疲
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