あるかにも聞え、また、たいはふぐ以上に美味《うま》いものであるかにも聞える。所詮《しょせん》、たいはふぐの代用にはならない。句としては名句かも知れないが、ちょっとしたシャレに過ぎない。小生《しょうせい》などから見ると、芭蕉はふぐを知らずにふぐを語っているようだ。他の句は別として、この句はなんとしても不可解だ。たいである以上、いかなるたいであっても、ふぐに比さるべきものでないと私は断言する。ぜんぜんちがうのだ。ふぐの魅力、それは絶対的なもので、他の何物をもってしても及ぶところではない。ふぐの特質は、こんな一片のシャレで葬《ほうむ》り去られるものではなかろう。ふぐの味の特質は、もっともっと吟味《ぎんみ》されるべきだと私は考える。
 それだからといって、なんでもかでも、皆の者ども食えとはいわない。いやなものはいやでいい。ただ、ふぐを恐ろしがって口にせんような人は、それが大臣であっても、学者であっても、私の経験に徴《ちょう》すると、その多くが意気地《いくじ》なしで、インテリ風で、秀才型で、その実、気の利《き》いた人間でない場合が多い。そこが常識家の非常識であるともいえる。
 死なんていうものは
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