まい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されてくる。しかも、ふぐの味は、山におけるわらびのようで、その美味さは表現し難《がた》い、というふぐにも、もちろん美味い不味《まず》いがいろいろあるが、私のいっているのは、いわゆる下関《しものせき》のふぐの上等品のことである。いやふぐそのものである。
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ふぐ汁や鯛《たい》もあるのに無分別《むふんべつ》
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 ふぐでなくても、無知な人間は無知のために、なにかで斃《たお》れる失態は、たくさんの例がある。無知と半可通《はんかつう》に与えられた宿命だ。
 それでなくても、誰だってなにかで死ぬんだ。好きな道を歩んで死ぬ、それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、逝《ゆ》くものは逝く。同じ死ぬにしても、ふぐを食って死ぬなんて恥ずかしい……てな賢明らしいことをいうものもあるが、そんなことはどうでもいい。
 芭蕉《ばしょう》という人、よほど常識的なところばかりを生命とする人らしい。彼の書、彼の句がそれを説明している。「鯛《たい》もあるのに無分別」なんていうと、たいはふぐの代用品になれる資格が
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