もくべい》でもない。呉春《ごしゅん》あるいは応挙《おうきょ》か。ノー。しからば大雅《たいが》か蕪村《ぶそん》か玉堂《ぎょくどう》か。まだまだ。では光琳《こうりん》か宗達《そうたつ》か。なかなか。では元信《もとのぶ》ではどうだ、又兵衛《またべえ》ではどうだ。まだまだ。光悦《こうえつ》か三阿弥《さんあみ》か、それとも雪舟《せっしゅう》か。もっともっと。因陀羅《いんだら》か梁楷《りょうかい》か。大分《だいぶ》近づいたが、さらにさらに進むべきだ。然《しか》らば白鳳《はくほう》か天平《てんぴょう》か推古《すいこ》か。それそれ、すなわち推古だ。推古仏。法隆寺の壁画。それでよい。ふぐの味を絵画彫刻でいうならば、まさにその辺《あたり》だ。
 しかし、絵をにわかに解することは、ちょっと容易ではないが、ふぐのほうはたべものだけに、また、わずかな金で得られるだけに、三、四度もつづけて食うと、ようやく親しみを覚えてくる。そして後を引いてくる。ふぐを食わずにはいられなくなる。この点は酒、タバコに似ている。
 ひとたびふぐを前にしては、明石だいの刺身《さしみ》も、おこぜのちりも変哲《へんてつ》もないことになってし
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