たからではあるが、さっそく鮎の洗いをつくらして食ってみた。驚いた。とても美味《うま》いのだ。なるほど、三井《みつい》が賞味したわけだと合点《がてん》した。
 美味いに任せて、その時はずいぶん洗いを食った。そうして人が訪ねて来るたびに、増喜楼へ案内して、洗いをつくらせてはご馳走《ちそう》した。ところが、習慣とは妙なもので、たいがいの人は、あっさり食わない。頭はどうしたとか、骨を捨てちゃったのかと心配する。当時、京都相場なら二円くらいもする鮎が、一尾三十銭ぐらいで始終食えたのだ。それが洗いにすると、一人前が一円以上につく。鮎をそんなふうにして食っては、なんとなくもったいないような、悪いような気がして、美味いとは知っても、勇気の出にくいものである。
 しかし、所《ところ》を得れば、洗いは今でもやる。この鮎の洗いからヒントを得て、私はその後、いわなを洗いにして食うことを思いついた。
 いわなは五、六寸ぐらいの大きさのものを洗いにすると、鮎に劣らぬ美味さを持っている。
 鮎はそのほか、岐阜の雑炊《ぞうすい》とか、加賀の葛《くず》の葉巻《はまき》とか、竹の筒《つつ》に入れて焼いて食うものもあるが、
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