大衆の口にはいる寿司ではない。今でも一皿、握りが七ツ八ツ盛られて、五十円とか八十円とかの立看板《たてかんばん》もあるが、これから話そうとする寿司は、そんないかさま[#「いかさま」に傍点]ものを指していうのではない。ただの一個が五十円以上百円の握《にぎ》りを指すのである。しかし、いかさまものの多いなかに、良心的な本物もなにほどかあって、わたしなどは盛夏《せいか》の食べ物に困りきっている時など、大いにそれで助けられ、大船《おおふな》から暑さを意とせず、毎日のように新橋へと足をのばしたものである。一流のまぐろというものは、最高の神戸肉や最上のうなぎを何倍か上回るほど値段の高いものであるが、食べてみれば、それだけの価値をもっていることは、ひと等しく認めるところの事実なのだから、どうにも仕方がない。わたしなど、健康への投資と考えて、夏中一流のまぐろで暮らすことになる。ところで、その一流のまぐろを常に備えて、味覚の確かな客を待ちかまえている寿司屋《すしや》というのははなはだ少ない。上物《じょうもの》寿司屋を発見することは、お客にとってまた苦労のタネである。
 寿司の上等もやはり材料が問題である。

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