。この一心太助《いっしんたすけ》にして、これはいかなるわけかといささか懐疑の念を抱かざるを得ない。
 しかし、寿司はよき飯《めし》あっての寿司だといえる。飯の水加減が悪かったりすれば、結果は寿司になるべき第一義が失われる。うなぎ屋の飯、寿司屋の飯は生命である。この飯をおろそかにしたのでは寿司にはならない。よき飯を炊《た》き、よき寿司を作らんとすれば、一人仕事ではだめである。毎朝魚河岸からもってくる魚、あなご、貝等にはいろいろ手のかかる仕事が多い。こはだのごとき、いずれも寿司のたねになるには、小さな魚に大そうな手数《てかず》がかかる。これを一人で処理するのは所詮《しょせん》無理である。このように寿司屋の下仕事は沢山ある。支店みっちゃんのように下仕事する者|皆無《かいむ》で、それを処理せねばならぬところに無理がある。そのために、飯がうまく炊けないという結果が生じてくるのだ。誠に歯がゆいような話である。
 助手一人使わない。小女《こおんな》一人使わない。女房の手伝いすら大して受けない。これでは仕事の伸びようはずがない。これだけの技倆《ぎりょう》を持ちながら、このままで小さく終わってしまうのは
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