なぎ屋が貶《けな》しているが、聞くに耐えぬ我田引水《がでんいんすい》だ。これは味覚の本領を衝《つ》いた上での話ではなく、無責任にきいたふうなことをいっているだけのことで、論にならない。進歩を知らないうなぎ屋として、お気の毒なことだとしか思えない。うなぎ屋だからといって、決してうなぎがわかるものではない例といえよう。
 東京のうなぎにかかっては、大阪の原始焼きは無条件降伏せねばなるまい。それにもかかわらず、直焼《じかや》きを誇るがごとき、笑うに耐えたる陋習《ろうしゅう》というべく、一刻も早く改めねばなるまい。のみならず、養殖のうなぎをもって、うなぎの論をぶつのは愚《おろ》かと申すべきだろう。
 寿司にしても、うなぎにしても、その材料の良否いかんのみにたよることが必要であろう。
 よい材料を使う寿司《すし》は、高いのは当然だ。高価を呼ぶものにはそれぞれ理由がある。その理由をわきまえず、単に金高のみに拘泥《こうでい》して驚くのは野暮《やぼ》である。高い寿司には高いだけの理由があって、むやみに金ばかり取るのは、どこにもないようだ。寿司の相場も実のところ味覚に通じた客人《きゃくじん》が決めている
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