食いの勝で、寿司屋の負けである。こんなあり様《さま》をくやしがり、片《かた》意地を張って京大阪|名代《なだい》の寿司屋連が、握りなにものぞ、とばかりやり始めたのが、今日京大阪にみる大看板の握り寿司であるが、まるっきり問題になるものではない。猿真似《さるまね》というヤツで滑稽《こっけい》である。いわんや他の地方のものは、食えたものではない。なくてはならぬしびまぐろをはじめ、なに一つ材料になる適当な魚がない。その点が最大の原因となっている。だが、彼らにはそれが一向にわかっていない。
 わたしは京都に生まれた関係で、京阪のうまいものはおのずから知ってはいるが、江戸前寿司の気力あるうまさには、さすがのお国びいきもかぶとを脱がざるを得ない。とはいっても、江戸前寿司を専業としている今日の東京の寿司屋、必ずしもうまいというのではない。何事によらず一概《いちがい》の論はよろしくない。
 うなぎにしても寿司同様、東京名物中の名物であるが、今日このごろでは、むかし通りの日本一であるとはいい難《がた》い。とは申せ「東京のうなぎは蒸して焼くから、だしがらのようなもので決してうまいとはいえない」と、よく関西のう
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