れて通って来る者ばかりといって過言《かごん》ではない。
 しかし、設備は充分、主人はおもしろいが寿司そのものの作品価値をどの程度持ってゆくかを検討すると――これをわたしはいろいろの点で究明しようとするのだが――まずどこへ出しても、決しておくれをとるものでないということは確かである。しかし、残念ながら新富《しんとみ》支店に劣る点なしとはいい難《がた》い。
 材料――主として魚介の目利《めき》きの点においては、ある程度みっちゃんが優れているように思う。といっても、双方それぞれに特徴があって、米を炊《た》かしてはだんぜん久兵衛《きゅうべえ》が優れている。海苔《のり》を買わせても彼が優《まさ》っている。新富みっちゃんは魚をみることにわたしは感心している。なかなかの目利きであるが、どうも海苔の選定と飯《めし》の炊き方は久兵衛に劣るとわたしはみている。その理由は、みっちゃんという人物が元来大阪、京都で育っている人間であるため、海苔選定にはどうも目の利かないところがあって、玉に瑕《きず》というところである。用いるところの酢はというと、双方ともまず似たりよったりで大差はないが、酢加減となると、赤酢《あかず》ばかり用いるみっちゃんに旗を挙げていい。
 そこで両者の甲乙《こうおつ》を論ずるに当たり、なくては叶《かな》わぬまぐろの場合を注目してみよう。これはみっちゃんの独壇場《どくだんじょう》である。ただ、飯の握《にぎ》り方には遺憾《いかん》な点がみっちゃんにあって、第一大きすぎる恨みがある。久兵衛のは贅沢寿司《ぜいたくずし》として文句なし。握り具合はほどよい特色を有し、酒の肴《さかな》になる寿司である。もし久兵衛がまぐろの選択をさらにさらに厳《げん》にし、切り方を大様《おおよう》に現在の倍くらいに切ったとしたら、それこそ天下無敵であろう。
 彼には彼の寿司観があって、結局まぐろはそう大きく切るものではない、という先入観を信念として、魚の切り方には、彼の気骨《きこつ》にも似ず貧弱な切り具合が見られる。
 おそらくそれは、彼が幼少育ったみすじ[#「みすじ」に傍点]という寿司屋の影響によるところが大《だい》であると考えられる。このみすじ[#「みすじ」に傍点]という寿司屋は、かつて宮内省《くないしょう》等への出前、何百人という出前を扱った寿司屋であるというから、名人芸を云々《うんぬん》するより
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