食いの勝で、寿司屋の負けである。こんなあり様《さま》をくやしがり、片《かた》意地を張って京大阪|名代《なだい》の寿司屋連が、握りなにものぞ、とばかりやり始めたのが、今日京大阪にみる大看板の握り寿司であるが、まるっきり問題になるものではない。猿真似《さるまね》というヤツで滑稽《こっけい》である。いわんや他の地方のものは、食えたものではない。なくてはならぬしびまぐろをはじめ、なに一つ材料になる適当な魚がない。その点が最大の原因となっている。だが、彼らにはそれが一向にわかっていない。
わたしは京都に生まれた関係で、京阪のうまいものはおのずから知ってはいるが、江戸前寿司の気力あるうまさには、さすがのお国びいきもかぶとを脱がざるを得ない。とはいっても、江戸前寿司を専業としている今日の東京の寿司屋、必ずしもうまいというのではない。何事によらず一概《いちがい》の論はよろしくない。
うなぎにしても寿司同様、東京名物中の名物であるが、今日このごろでは、むかし通りの日本一であるとはいい難《がた》い。とは申せ「東京のうなぎは蒸して焼くから、だしがらのようなもので決してうまいとはいえない」と、よく関西のうなぎ屋が貶《けな》しているが、聞くに耐えぬ我田引水《がでんいんすい》だ。これは味覚の本領を衝《つ》いた上での話ではなく、無責任にきいたふうなことをいっているだけのことで、論にならない。進歩を知らないうなぎ屋として、お気の毒なことだとしか思えない。うなぎ屋だからといって、決してうなぎがわかるものではない例といえよう。
東京のうなぎにかかっては、大阪の原始焼きは無条件降伏せねばなるまい。それにもかかわらず、直焼《じかや》きを誇るがごとき、笑うに耐えたる陋習《ろうしゅう》というべく、一刻も早く改めねばなるまい。のみならず、養殖のうなぎをもって、うなぎの論をぶつのは愚《おろ》かと申すべきだろう。
寿司にしても、うなぎにしても、その材料の良否いかんのみにたよることが必要であろう。
よい材料を使う寿司《すし》は、高いのは当然だ。高価を呼ぶものにはそれぞれ理由がある。その理由をわきまえず、単に金高のみに拘泥《こうでい》して驚くのは野暮《やぼ》である。高い寿司には高いだけの理由があって、むやみに金ばかり取るのは、どこにもないようだ。寿司の相場も実のところ味覚に通じた客人《きゃくじん》が決めている
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