、虫屋の店で、夏の夜の景物詩を奏でて、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を翻した夜の散歩の男女で、通りは埋まっている。死の一歩手前まで、逐《お》い詰められたような私の気持とは、およそ、似ても似つかぬ長閑《のどか》さであった。狐《きつね》につままれたような顔をして、家へ辿《たど》りついて、
「どうだい? 夕立ちは、酷《ひど》かったろう?」
と聞くと、いいえと妻は、怪訝《けげん》そうな顔をしてる。
「蒸し暑くて蒸し暑くて、……今日は、一雨来るかと思って、せっかく楽しみにしてたのに、どっかへ夕立ちが逃げてしまって到頭、一雨も降らずじまいよ」
と、きた時には、私はううん! と、へたばってしまって、玄関に腰を降ろしたまま、しばらくは口もきけなかった。夕飯も食わずに、へとへとになって、夕立ちの来る方来る方と、東京中逃げ廻ったバカ野郎はどこのどいつだと、自分を罵《ののし》りつけてくれたいような気がした。
夏は雷から逃避行
今度の戦争へはいる、五、六年前のことであった。その時分は私も、日本橋に、小さなオフィスを構え、どうやら貿易屋で、飯が食えていた頃であったから、せめて自分の家だけは、一
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