、虫屋の店で、夏の夜の景物詩を奏でて、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を翻した夜の散歩の男女で、通りは埋まっている。死の一歩手前まで、逐《お》い詰められたような私の気持とは、およそ、似ても似つかぬ長閑《のどか》さであった。狐《きつね》につままれたような顔をして、家へ辿《たど》りついて、
「どうだい? 夕立ちは、酷《ひど》かったろう?」
 と聞くと、いいえと妻は、怪訝《けげん》そうな顔をしてる。
「蒸し暑くて蒸し暑くて、……今日は、一雨来るかと思って、せっかく楽しみにしてたのに、どっかへ夕立ちが逃げてしまって到頭、一雨も降らずじまいよ」
 と、きた時には、私はううん! と、へたばってしまって、玄関に腰を降ろしたまま、しばらくは口もきけなかった。夕飯も食わずに、へとへとになって、夕立ちの来る方来る方と、東京中逃げ廻ったバカ野郎はどこのどいつだと、自分を罵《ののし》りつけてくれたいような気がした。

      夏は雷から逃避行

 今度の戦争へはいる、五、六年前のことであった。その時分は私も、日本橋に、小さなオフィスを構え、どうやら貿易屋で、飯が食えていた頃であったから、せめて自分の家だけは、一番雷の鳴らぬところへ建ててそこから東京へ通勤しようと考えた。
 雷の鳴りそうな日は、社長は御欠勤になって、その安全地帯の自宅で、悠然と読書にシャレ込もうという寸法であった。ノコノコと中央気象台まで出かけて行って、一体東京近辺では、どこが雷が鳴らないでしょうね? と、尋ねたことがある。途方もないバカなことを、聞きに来た男を迷惑がりもせずに、若い二人の技手が、――今なら技官というところであろうが、親切に応待してくれた。
 なるほど、気象台には、こういう調べがついているんだなと、感心したことであったが、長さ二尺、幅一尺ぐらいの、大きな図表を十五、六枚も持ち出して来、私のために調べてくれた。それには一枚一枚に日本地図が印刷されてあって、その上に波のように青い線が、ビッシリと一杯に彩られてある。一月に三十回以上雷の鳴るところ、十回以上鳴るところ、五回以上鳴るところといった風に、細かな統計が取ってあった。
「比較的、雷の鳴らないところというお望みなら、海岸へ住むんですな。東京近辺では、逗子《ずし》、葉山《はやま》。千葉県では内房《うちぼう》地方、……その辺が、月五回の部分に当りますから、一番雷が尠《すくな》いわけですね。絶対鳴らないところ? そんなところは、日本中探したって、ありゃしませんよ。樺太《からふと》には、一カ所そういうところもありますが、その代りそこは、冬雪の降ってる最中に、鳴りますよ。まさか樺太から、東京へ通勤もできんでしょう?」
 と、その若い技官は件《くだん》の図表を調べてくれながら、私を冷やかした。
 房州よりは、湘南《しょうなん》という方が、何か聞こえが明るいから両方同じくらいの程度に雷の尠いところなら、ようし逗子へ家を建てようと、私は考えた。そして家を建てるなら、まずその土地になじんでおかぬといけんから、今年の夏は家中で逗子へ避暑だと私は、勇み立った。妻と女中に二人の子供、私を入れて総勢五人、桜山の葉山へ抜けるトンネル入り口近くの農家の二階|二間《ふたま》を、一夏借りたのであったが、何が月に五回のところも、海岸地方もクソもあるものか!
 鳴ったにも、鳴ったにも! 行った晩から東京と変りなく、鳴り轟《とどろ》いた。中央気象台のクソ野郎! 人にウソを吐《つ》きやがって! と私は、頭から湯煙りを立てた。
 そして挙句の果てに、気絶せんばかりに、大鳴りに鳴り轟《とどろ》いたのは、昭和何年だったか、もう今では年も忘れてしまったが、あんまり恐ろしかったから、月と日だけは今でも忘れることができぬ。七月三十一日の、晩であった。ガラガラバリバリゴロゴロズシンとのべつ幕なしに地鳴り震動して、私はもう、死んだ方がいいと、往生観念したくらいであった。
 妻も女中も、雷なんぞ、鵜《う》の毛で突いたほども、感じてはおらぬ。子供二人はグウグウと、高鼾《たかいびき》で眠っている。私一人が、パッパッと往来が真昼のごとくに明るくなるたんびに、眼を閉じ耳を塞《ふさ》ぎ心臓を破れんばかりに、ドキつかせた。到頭|堪《たま》らなくなって、妻と女中に笑われ笑われ、階下へ逃げ込んだ。入れて下さい! とばかりに、お百姓夫婦の眠っている、破れ蚊帳《がや》の中へ、飛び込んだ。お百姓は素《す》っ裸体《ぱだか》で、フンドシ一つで眠っている。その廻りに、黒ん坊みたいな子供が四人、ウジャウジャと寝て、その向うに腰巻一つの内儀《おかみ》さんが、肥《ふと》った尻《しり》をこっちへ向けている。
 寝るところも、横になるところも、ありはせん。そのないところを私は、無理に亭主の尻っぺたのあたりに割り込んで、
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング