湿っぽくて日向《ひなた》臭くて、汗臭くてムンムンするような蒲団《ふとん》を、亭主から剥《は》ぎ取って頭からひっかぶって、震えていた。酔狂な! と、後で散々私は妻から笑われたが、酔狂にそんな真似《まね》ができますか!
 半分死んだ気で頭を抱えてたのを、未だに忘れることができぬ。
 何でも、この時の大雷雨は、逗子鎌倉地方では、八十年ぶりとかいうことであった。鎌倉の八幡宮《はちまんぐう》の、杉の老木が二本も落雷で裂け、おまけに東京では八十カ所も落雷したと後で新聞に出ていたから、東京にいてももちろん私は、右往左往して仰天したに違いなかったであろう。しかし、東京で雷に遭うのと、逗子で遭うのとでは、私の気持の持ち方が違う。中央気象台で、なまじ有難そうな図表なぞを見せられて、安心して出かけて行ったばかりに、もう腹が立って腹が立って、……今でもその時のことを考えると中央気象台へ押しかけて行って、愚痴のひとつも並べたくなってくる。
 が、もう、十何年も昔のことだ。あの時の若い技官二人は今頃は出世して、どこかの測候所長にでもなっているに違いない。

      雷さんはイキなもの

 昔の物語を読むと、バカげたことが書いてある。若い女房が、たった一人で留守番をしてるところへ、ピカリゴロゴロ……ちょっくら、雨宿りを、さしておくんなさい! とはいって来た途端に、ピカッときて若い男に、アレエとばかり女房は縋《すが》りつく。しっぽり濡れて、二人は割なき仲となりにけりというのであるが、そんなバカげた話があって堪《たま》るものか! と私は考えていた。
 私のような雷嫌いには、およそこれは、想像もつかぬ光景である。アレエ! と縋りつく方は、よろしい。これは、あり得ることである。私だって、縋りつくであろう。問題は、縋りつかれた男の方の、出方であった。ゴロゴロピカピカの真っ最中に、いくら艶《なまめ》かしく縋りつかれたからとてそんな恐怖のタダ中で、味な気なぞが起るものか! そんなバカをしたら、恐怖とアレが入り交じって、心臓が麻痺《まひ》してしまうであろう。ゴロピカの最中は、二人でただ抱き合っていて、やがて、西の空が明るくなって、ゴロゴロが遠のいて、初めて人心地がついてから、抱き合ったが百年目とばかりに、そろそろ心臓がアレの方に向うのが、本当であろうというのが、私の意見であった。難しくいうと「古物語《こものがたり》に現れたる、私の雷観」というところであろうか。しかし私の考えは、間違っていたことに、気がついた。

      全世界の雷研究に及ぶ

 抱きつかれた瞬間、心臓は恐怖とアレの二重働きをせず、恐怖はどこかへ行って、もっぱらアレに一重働きをするから、決して、心臓麻痺の心配は要《い》らねえということに、気がついたからであった。そこで、私自身の体験へ、移ろう……。と、言ったところで、誰も私なんぞに、抱きついた女があったわけではない。
 選《よ》りに選って私ごときクマソタケル然とした男に抱きつく女なぞのあろうはずもないことであるが、今から一昔の前、西班牙《エスパニア》の公使が、フランコ政権を代表して、日本に駐※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]《ちゅうさつ》していた時分であった。この公使館に、頗《すこぶ》る優美な女がいた。明眸皓歯《めいぼうこうし》、風姿|楚々《そそ》たる、二十三、四の独身の秘書《ステノ》であったが、私は、この|お嬢さん《セニョリータ》に、ゾッコン上せあがってしまった。
 瞳の黒い、笑うと可愛《かわい》い靨《えくぼ》を、にいっと刻むなんてなことになってくると、雷の話をしているのか、|お嬢さん《セニョリータ》の惚《ほ》れ気を語っているのか、わけがわからなくなってしまうが、わたしこの夏は二十日間ばかり、休暇が貰《もら》えますのよ。どこか日本の景色のいいところ、案内して下さらない? なんてなことになったから、バカな私は有頂天になって、オウ、イエス、シュア、シュア! とばかり、身銭を切って恐ろしく方々へ、この秘書を引っ張り廻してくれた。
 大島へ行って、三原山の噴火口を覗《のぞ》かせて、富士山麓の河口湖《かわぐちこ》へ行って、野尻湖《のじりこ》へ連れて行って、最後に、松島へすっ飛んだ。夏だから、大島の元村で、ゴロゴロピカッ! 河口湖で、もっと酷《ひど》いやつをピシャンバリバリ! 野尻湖ときたら、天地も砕けんばかりのやつを、ゴロピシャッ!、しかし割合、平気でしたね。あの恐ろしい雷が、この夏だけは!
 何ともないデス。なるほど、上せあがった時は、心臓は恐怖を忘れて、アレの方へばかりドキツクということを、私は身をもって体験したわけであったが、このお嬢さんが亜米利加《アメリカ》へ行っちまったら、また駄目だ! たちまち私の心臓はまた、恐怖専門へ逆戻りした。物心
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