ついてこの方、たった一夏でも、雷から解放された夏なぞというものは、私にはかつて覚えなかったが、この夏だけは私にとっては、まったく、雷を意識の外に逐《お》いやった、極楽のごとき夏だった。その代り、恐ろしく暑っ苦しいこと夥《おびただ》しい夏でもあった。
このステノグラファーは、西班牙人だと思ってたら、なんと、智利《チリー》生まれだということが、後でわかったが、なあに智利だって西班牙だって、人種に代りはない。同じラテンだから、私にとっては、カルメンさんの情熱だったということになるのであるが、私は誰にでも、逢う人もって、雷のことを聞くのが痼疾《こしつ》だから、もちろんこの女を掴《つか》まえても、忘れずに雷のことだけは、根掘り葉掘り聞いた。
「夏のマドリードの雷は、酷《ひど》きや?」
「オウ! ……時々《サムタイムズ》……」
なんて具合にネ。
「バルセローナは?」
「ヤッパリ、時々……」
「どのくらい酷きや? 卒倒するくらいか?」
「ワタシ雷《サンダー》デ引ッ繰リ返ッタコト、ナイカラ、ワカラナイ。チョウドココグライ……モット酷イコトモアル」
野尻湖の雷と、女は比較しているのであった。
「リスボンは?」
「葡萄牙《ポルツガル》ハ、ワタシ行ッタコトナイカラ、少シモ知ラナイ。西班牙デ、一番酷カッタノハ、カステイルノ高原……」
「智利のサンティアゴは?」
「娘ダッタカラ、ワカラナイ!」
「ヴァルパライソは?」
「オウ、テリブル!」
と女は笑ったが、ヴァルパライソの雷がテリブルなのか、その時バリバリと、頭上で炸裂《さくれつ》した野尻湖の雷に、テリブルと顔をしかめたのか、そこのところは定かでない。
これもちょうど、その頃であった。なぜ、そんなことをしてみたのか? 自分でもその気持がサッパリわからないが、御苦労千万にも私は、私のところへ|引合い《インクワイリ》をよこした海外の商館や、取引先へ宛てて、雷のことを問い合わせてやったことがある。甚だ恐れ入り候えども、当商会は雷のことについて非常なる興味を有し居《お》り候間、左記御返事下され候はば、有難き仕合せに御座候、とか何とか書いて、無暗《むやみ》やたらに出した覚えがある。
一つ、御地では夏、雷が大変屡々《ベリーオッフン》に鳴るや?
二つ、かなり烈《はげ》しく鳴るや?
[#地から5字上げ]|貴下に忠信なる《フェイスフリーユアズ》
[#地から2字上げ]橘商会拝
てなわけなのであるが、十銭切手を貼《は》ると、世界中どこでも、郵便の行く時代であったから、私はこれを至るところへ飛ばせてくれた。印度《インド》から注文《オーダー》が来ても、タイから引合いが来ても、平気の平左で「雷の話」という本を、一心に読み耽《ふけ》っている社長が、気が狂ったように雷の問合せばかり全世界に発送しているのであったから、タイピストはクスクス笑いを怺《こら》えているし、こういう問合せを貰《もら》った外国の商館でも、さぞかし面食らったことであろう。
なんだ俺の取引相手は、日本の貿易屋じゃなくて、気象台だったのか? と、眼を廻したかも知れぬ。が、外国人のことだから百本くらい出したのに、十五、六本ぐらいは、律義に返事をよこしたように、覚えている。前にも言ったように、何のためにそんな問合せを出したのやら、雷が鳴らないところがあったら、そこへ移住しようという肚《はら》があったわけでもないし、手紙を出した当の本人に、出したわけがわからんのだから返事などももちろんもう忘れてしまったが、今でも覚えてるやつだけを二つ三つ並べてみようか。
ヴェネズエラ、カラカスの商人 鳴る、鳴る、盛んに鳴るヨ。
和蘭《オランダ》、アムステルダムの商人 鳴ります。
瑞西《スイス》、ベルンの商人 鳴る、ビュッヒュウと鳴る。
笑わせちゃいけない、瑞西の雷は、ビュッヒュウと鳴るんだそうな。
印度、ボムベイの商人 強大に鳴る。天地も破れんばかりに鳴る。
この返事を読んだ途端、将来洋行しても、ボムベイだけは絶対行かぬと私は決心した。
タイのバンコックの海軍の軍医少将で、シュミトラさんというオッサンは、何か私が日本の間諜《スパイ》で、タイの気象状況でも知りたがっていると勘違いしたのであろう。遺憾《ベリイソーリイ》ながら、余は気象上の通報を認《したた》むるの自由を有せずと、恐ろしく堅っ苦しい返事をくれた。
弊商会は雷に興味を有せずなんて、怒ってきたのもある。亜米利加《アメリカ》のオレゴン州ポートランドのオッサンは、いかにもヤンキーらしく、まず貴下の学界における地位を明示せよ。余は、恐るべき著述を贈呈せんと言って来たが、私には学界に地位がねえから、今もって恐るべき著述を送って来ん。ウルグアイ、モンテヴィデオの、ドン・ペドロ何とかいうオッサンは、なんとハヤ、書簡
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