、一緒に一遍乗りましょうよ……」
姉妹は手を叩《たた》いたり、笑ったりしていますが、六蔵|爺《じい》だけは汗だくの大奮闘でした。水量も水勢も、いよいよ増してきます。
「嬢さま……まだ出しますだかね?」
「どう? もっと出しましょうか?」
「もういいわよ、スパセニア! そんなに出したって、今水遊びするわけじゃ、ないんですもの」
「有難う、爺や! じゃ、もう、いいわよ! ……ついでにジュールも、厩《うまや》へ繋《つな》いどいて頂戴!」
そして私たちは、その溝渠《インクライン》に沿った野原をブラブラと小一里ばかりも下って、その辺の景色を見ることにしましたが、そんなに溝渠《インクライン》の話ばかり申上げても、面白くないでしょうからこのくらいで止《や》めておきましょう。ともかくこの溝渠《インクライン》を見ての私の感じでは、規模が大きいとか着想が雄大だとか、そんなことよりもこれだけの施設を整えながら、中途で挫折《ざせつ》してしまってさぞ残念だろうと、父親の心の内を推量せずにはいられなかったのです。
そしてもう一つは、これらのすべての施設が全部完成して、動き出したならば、きっと日本一の、外人招致の温泉遊覧地になったに違いないのに! と、それを他人事《ひとごと》ならず残念に思わずにもいられなかったのでした。
私はもちろんジーナの勧めに従ってもう二、三日滞在することに料簡《りょうけん》を決めてしまいましたが、散歩から帰って来ると、パパのお部屋も見せて上げましょうか? とスパセニアが、初めて東|端《はず》れにある父親の書斎を見せてくれました。もちろん、父親はまだ帰っていませんが、広々とした四周の壁を埋めている、何千巻という金色|燦爛《さんらん》たる書物! なるほど大学出の鉱山技師だけあって、その夥《おびただ》しい蔵書にも眼を奪われずにはいられませんが、いずれもユーゴや仏蘭西《フランス》の書物ばかりとみえて、私なぞには一冊たりとも表題すら読めるものではありません。
大体ユーゴの言葉はブルガリアなぞと同じく露西亜《ロシア》語と同語源のスラヴ語だというのでしたが、そのスラヴ語が私にはわからないのだから、仕方ありません。父親の部屋が済んで次はジーナの部屋……スパセニアの部屋……いずれも若い娘たちの部屋らしく、日本の人形やユーゴの郷土人形なぞを飾って、こぢんまりと居心地よく、父親同様書物好きとみえて、そして書物だけがこの淋《さび》しい生活の、唯一の友達とみえて、ユーゴの書物もあれば仏蘭西《フランス》の書物もあり……一歩戸外に出れば、荒涼落莫《こうりょうらくばく》たる無人の高原でありながら、部屋の中にいさえすれば、東|欧羅巴《ヨーロッパ》文化の唯中《ただなか》に佇《たたず》んでいるような、錯雑した気持を覚えたことを、今に忘れることができません。
ジーナに呼ばれて、リューマチに効くという温泉に入ったり、湯上がりの生き返った気持で芝生に佇んだスパセニアや、ユーゴの人形を抱いたジーナ、そして薔薇《ばら》に埋もれたスパセニアなぞの、五、六枚の写真を撮りましたが、私はその後二年ばかりたって竦然《ぞっ》とするような事件のために、身震いしてこれらの写真をことごとく燃やしてしまいました。
今この写真さえあれば、貴方《あなた》にも御自身の眼で見ていただいて、私の話も信じていただけるのに! とつくづく残念な気がしてならないのです。
六
パパも喜んでますのよ、とジーナはいいましたが、その言葉に偽りはありませんでした。翌《あく》る日、二、三日ぶりで私は父親と居間で顔を合わせましたから、居心地のいいに任せてこうして、無遠慮に御厄介になっていて申訳ないと謝りますと、いやいやそのお礼は、私の方からこそと、父親は丁寧な調子でいうのです。
こんなところで何のおかまいもできないと、自分は忙しくて碌々《ろくろく》お相手もできないが、貴方《あなた》がおいでになって二人の娘が、どんなに喜んでるかわからない。あんなに二人が楽しそうな様子をしているのは、戦争以来初めてといっていいかも知れぬ。差し支えなかったら、幾日でもどうぞ、ゆっくり滞在していって欲しいというのです。娘たちの楽しげな様子を見ているほど、父親としてうれしいことはないのだからと、言葉を添えました。
そして、明日《あした》から山のことで自分はちょっと、長崎の鉱務署まで出かけなければならないが、そのついでに二、三人調査に連れて来なければならぬ人もあるので、四、五日留守をするが、その間もし遊んでいってもらえるなら娘たちもどんなに心強いか知れないというのです。初めて来て、どこの馬の骨だかわからない人間が、お留守に遊んでいって大丈夫でしょうか? と聞いてみましたら、わたしは何の取り柄《え》もない人間だが、どんな人か? 偽りをいうような人かどうか? ということだけは自慢ではないが一目でわかるつもりだと、しまいには笑い話になりましたが、行き届いた人とみえて、親御《おやご》さんが心配されているといけぬから、手紙をお書きなさい、わたしが明日|小浜《おばま》から出しておいて上げましょうということですから、この父親に手紙を頼んでおくことにしました。
さて、父親も翌る日出かけて、私はジーナやスパセニアとまたどんなに楽しい日々を過ごしたことでしょうか? 先生、貴方に同じようなことばかり並べ立てていても、仕方がありませんから略しますが、例の岬へも足を向ければ、湖水へもまた何度かいってみました。ジーナとスパセニアと馬を並べて、静かな湖の回りを散歩したり、豪宕《ごうとう》な天草灘《あまくさなだ》の怒濤《どとう》を脚下に見下《みおろ》して、高原の夏草の間を、思う存分に馬を走らせたり……学校はまだ休暇ではないのです。ほんの十日ばかりのつもりで出かけて来た旅が、こんなにも遊び過ごしてしまって、早く帰らなければならぬならぬと心では、絶えず思いながらもつい一日のばし二日のばして、勧められるままにウカウカと、それからまた五、六日ばかりを、夢のように暮してしまいました。
私はこの話の初めの方で、この家《うち》はまるで千一夜物語《アラビヤン・ナイト》の中の、迷路に呼び込まれた荷担《にかつ》ぎのような気がすると、申上げたような気がします。こうして遊んでいるうちに、そういう夢幻感は消え失《う》せてしまいましたが、その代り今度襲うてきたのは日本の昔話にある、浦島太郎の物語でした。昔、浦島太郎は助けた亀に乗って、竜宮城へいって乙姫《おとひめ》様に歓待されるまま、そこで何日かを遊び暮して元の浜へ帰って来た時には、白髪《しらが》の翁《おきな》になっていたといいますが、今の私の場合にも、何かそんな気がしてならないのです。しかも、そういう気がする一方、もしそうならそれでも仕方がないと、度胸を決めていました。ともかく、日一日と私はこの二人に惹《ひ》き付けられて――二人というよりも、この二人の住んでいる世界にといった方がいいかも知れません。その世界の中に溶けこんでしまって、どうしても一思いにここを離れ去ることができなくなってしまったのです。
馬丁《べっとう》の福次郎や水番の六蔵や農夫たちが、二日おき三日おきに大野木へいった時に、取って来てくれますから三日遅れの新聞もあれば雑誌もありますが、そんな新聞雑誌に眼を通すでもなければ、ラジオや映画があるでもなく、近代感覚なぞというものは凡《およ》そ薬にしたくもない、こんな無刺戟《むしげき》な単調な山の中で、何が面白くてそう長く遊んでいられるのか? と、先生、貴方《あなた》はお考えになるかも知れませんが、それがそうではないのです。
ここにいる限り、その日その日が夢のように楽しくて、まるで薔薇《ばら》の花弁《はなびら》の中ででも眠っているような気がするのです。西洋の小説に、薔薇の花弁に包まれているような気がするとよく書いてありますがまったくそういう気がして、二人と一緒にいる限り毎日毎日がこの上もなく楽しいのです。しかもそれでいて、別段私はスパセニアの隙《すき》を見て、ジーナと二人切りになる機会ばかり、窺《うかが》っていたというのでもありません。打ち明けていえば初めはいくらか、それも私の心の中にありましたが、二人と親しんでくるに従って一体私という人間は、どっちがほんとうに好きなのだか、自分にもほんとうの自分の気持が、わからなくなってきたのです。なるほどあの時はスパセニアに楽しい夢を破られたような気がしたのは、事実です。が、日が過ぎるにつれて、優しくて濃艶《のうえん》な姉もいいけれど……もちろん堪《たま》らなく魅惑的ですけれど、勝気で気品の高い妹の眸鼻《めはな》立ちの清らかさにも、たとえようなく心が惹《ひ》かれてくるのです。
結局、正直なところどっちがほんとうに好きなのだか、私にも見当がつかなくなってしまいました。ですから、もし、強《し》いて無理に決めろといわれれは、欲ばっているようですけれど――先生、貴方は困った男だとお思いになるかも知れませんけれど、二人とも! と答えずにはいられなくなってくるのです。
朝早くジーナが、栗毛のプルーストを飛ばせて大野木まで、買い物にいったことがありました。その時私は二階の部屋で、友達へ出す手紙を書いていました。お邪魔じゃありません? と声をかけて、スパセニアが切ったばかりのカーネーションやアイリスや、薔薇の花なぞを持って上がって来たのです。枕許《まくらもと》の花瓶に生けて、壁や柱の花筒《はなづつ》に挿《さ》して、
「ここから眺《なが》めると、海が広くて、気持が晴れ晴れするでしょう?」
と縁側に佇《たたず》んで、海へ眸《め》を投げていました。その恍惚《うっとり》と眺めている、キリッと引き締まった横顔や恰好《かっこう》のいい鼻、愛らしく結んだ唇なぞを眺めているうちに……クッキリと盛り上がった胸や柔らかな腰の線に見惚《みと》れて思わず手紙を書く手をやすめてしまいました。ふと気が付いてスパセニアは、振り返ってにっこりと靨《えくぼ》をうかべましたが、欄干《てすり》にからだを凭《もた》せて、悪戯《いたずら》っぽそうに、聞いてくるのです。
「覚えていらっしゃる? こないだ溝渠《インクライン》を見にいらした時に、……わたし、ほら! 六蔵を探しにいったことがあったでしょう?」
「……そう……」と私はうなずきました。
「岸に腰かけて……木の幹に腰かけて、ジーナと随分長いこと、話してらっしゃったわね? ……何のお話、なさってらしたの?」
「何の話ってことも、ないですけれど……」
あの時、もうちょっとのことで、ジーナの手を握りかかったことを思い出して、私は赧《あか》くなりました。
「貴方《あなた》は、知ってたんですか……?」
「どうしても六蔵が見つからないから、諦《あきら》めて戻ろうとしたら、お話してらっしゃったでしょう? ですからわたし……お邪魔しちゃ悪いと思って、もう一遍六蔵を探しにいきましたの。ジーナと仲よく話してらっしゃるの、わたし、うれしかったから……もっと、話してらっしゃればいいって思って……」
「……別段……どうっていう話でもないけれど……貴方たちがユーゴから帰っていらした時のことや、長崎にいらした時分の話を聞いてたんです……」
「…………」
しばらくしてから、
「ジーナお好き?」と聞いてくるのです。
「そりゃ、僕……好きですよ……」
「ジーナも、仲よくして上げてね。ジーナは優しいいい人ですわ。誰にでも親切で、素直で……パパにも孝行で……よくできるのよ、学校なんか、いつも一番でしたわ……ピアノも上手ですし……ジーナのピアノ、お聞きになったことある?」
「いいえ……まだ……」
「じゃ、帰って来たら、聞いて御覧なさい……とても上手よ」
「貴方は……?」
「わたしは駄目なの、何にもできやしませんわ……」
私の方へ横顔を向けて、後は独語《ひとりごと》のように、「わたしは、優しくもないし……親切でもないし……戦争で滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になって、学校も何も止《や》めてしまったし……」
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