五

 もちろん、彼女は暗い面持《おももち》で、ボソボソと人の哀れみなぞを惹《ひ》くような調子で、身の上語りをしていたのではありません。また日本政府や憲兵隊の取り扱いぶりを、非難しているのでもありません。時々思い出して涙ぐんではいましたが、大体にきわめて明朗に、淡々として、好奇心で私の問うに任せて、こんな話をしてくれたに過ぎないのです。
 そしてまた、本国の財産が没収されようと、長崎の帰る家はなくなろうとも、彼女たちは決して貧しいという身の上ではありません。昔の境遇に較《くら》べれば、烈《はげ》しい転変を見せてるとはいえ、まだこれだけの厖大《ぼうだい》な地所を持って、立派な家があって、庭園があって……たとえこの湖や、地所の一部農場の一つも手離したとしても、おそらく普通の人には想像も及ばぬ、莫大な金が入ってくるに違いありますまい。まったくの貧乏な身の上というのではありません。
 が、しかし、仮にもユーゴの、銅山王とまでいわれた人の孫娘たちが、山の奥に住んで立ち腐れの工事場を抱えて、戦争の痛手を受けて何もかも、滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になっていると知っては、まったく何といって慰めていいかが、わからないのです。殊《こと》に、私の心を打ったのは昔の恩人である祖父の安否を気遣って、当てにもならぬ消息《たより》を待って、この山奥に暮している父親の尊い心と、その心の中を察して、世の中の華やかさ賑《にぎ》やかさを振り向きもせず、この人気《ひとけ》のないところに住んでいる娘たちの優しい心持だったのです。それが、何ともいおうようない気持を私に起させて、私は涙ぐましい感激に打たれました。
 彼女は膝《ひざ》の上に両肘《りょうひじ》を凭《もた》せて、頤《あご》を支えながらじいっと、湖へ瞳《ひとみ》を投じています。彼女に膝を並べて、私も言葉もなく、湖を眺《なが》めていました。何の不自由もない富豪の家に生まれながら、なじまない父の国に憧《あこが》れて来たばっかりに、数奇《すうき》な運命に弄《もてあそ》ばれている娘……そして今では、ここよりほかに国も家も持たぬ娘……妹と父親のほかには、一家一門おそらくは死に絶えてしまったのであろう孤独な身の上……と、思うと、彼女は別段暗い面持もしてはいませんが、それだけに私の心の中には、暗い侘《わび》しさが水のように忍び寄ってくるのです。
 そして、適当な言葉が口に出てこなくて、この瞬間ほど私は、彼女を抱いてその孤独な魂を慰めてやりたいと、思ったことはありませんでした。が、いくら同情しても、私のような学生の身の上では、どうすることもできぬ、相手の境遇です。いわんや、何度もいうとおり、運命に翻弄《ほんろう》されているとはいえ、決して彼女は現在貧乏な身の上ではありません。
「面白くもない話……おイヤだったでしょう?」
「お気の毒だと、思っています……何といったらいいかと、さっきから僕は考えていたところです」
 運命の打開を図って、今も山へ行っている父親のことでも彼女は、思いうかべているかも知れません。湖の向う側の、林の上に聳《そび》えている赭《あか》ちゃけた禿山《はげやま》に、じいっと彼女は、眼を留めているようです。長い睫毛《まつげ》の先が、濡《ぬ》れたようにそよいで、象牙《ぞうげ》彫りのようにキメのこまかな横顔……キラキラとした、亜麻色の髪……しかも、膝と膝が触れ合って、彼女の身体を流れている温かい血が、脈管へも皮膚へも、息苦しく伝わってきます。夢のように、しいんとした何分かが過ぎ去って、私はハッとして、手を引っ込めました。さっきから、もう、何度彼女の手に触れようとして、背《せな》へ手を回そうとして、そのたんびに胸を轟《とどろ》かせていたか、知れないのです。そしてこの時ほど私はスパセニアが帰って来なければいいと、思ったことはありません。
 からだ中が燃えるようにかっかとして、顔が火照《ほて》って頭が茫《ぼう》っとして、こうしていても躍り出したくなる無性に楽しいような気がしてきますけれど、それでいて彼女と膝が触れ合っていることが、また堪えられなく全身をムズ痒《がゆ》くさせてくるような……この時ほどスパセニアが帰って来てくれなければいいと、肚《はら》の中で思っていたことはないのです。
「お差し支えなかったら……もっと、遊んでらっしゃいません? こんな山の中ですから、面白いことなんぞ何にもありませんけれど……」
 艶《あで》やかな眸《め》が、にっこりとのぞきこんできます。
「スパセニアも、とても喜んでますし……パパも喜んでますのよ。ね、およろしいでしょう? もっと遊んでいって下さいません?」
「僕は……僕は……かまいませんけれど……でも……そんなに遊んでて、お宅に御迷惑じゃないでしょうか……?」喉《のど》が掠《かす》れて、他人が喋《しゃべ》っているような気がしました。
「迷惑どころじゃありませんわ……もう、わたくしたちみんな、楽しくて……このままお別れ、できないような気持ですわ。……初めていらした時から……初めていらした時から……わたし……いい方がいらして下さったと……」
「え?」
 と、私は耳を疑いました。途端に全身がかっとして、燃えるようにまたにっこりと赧《あか》らめているジーナの顔が、ぽうっと花の咲いたように眼の前に躍って、この瞬間ほど私は、自分を幸福だと思ったことはありません。そしてその瞬間、もし眼を向うの方へ走らせて、ハッとしなかったらおそらくあるいは、夢中で彼女のからだを引き寄せてしまったに、違いありません。
 が、瞬間私は、草原の中を疾風《はやて》のように馬を走らせて来る、スパセニアの姿を認めたのです。そしてびっくりして、突っ立ち上がりました。見果てぬ楽しい楽しい夢を、引き破られたような気がして、何ともいえぬ腹立たしさを感じました。
「お待ちどおさま、……随分手間どったでしょう? 六蔵ったら……いくら探しても、いないのよ、散々探して、大野木へいこうとしている途中まで追っ駈けてって、やっと連れて来たわ」
 とそこに、馬を立てているのです。
「ほら、あすこへ来るでしょう?」
 なるほど、湖の遥《はる》か東側に、草原の中を歩いて来る人の姿が見えます。スパセニアは家まで戻って、馬でその六蔵という男の行方を探し回っていたのでしょう、温かい陽《ひ》に蒸されて、上気したようにポウッと眼の縁が染まって、汗ばんだ髪がビッショリと、頬《ほお》についています。
「いらっしゃいよう! ……さ、今、水門をあけさせますから!」
 馬から降りたスパセニアを先立てて、私たちはまた草むらを水門の方へ向いました。が、今の私にはもう、そんな溝渠《インクライン》を見たいという願望なぞは、少しもありません。それよりも、もっともっとジーナと二人っ切りで、話していたくて……話ができなくても二人っ切りでただじいっと腰かけてたくて、スパセニアの後からついて行きながらも、ともすればシーナの手が握りたくて、からだが触れ合うたんびに、胸を轟《とどろ》かせていたのです。
 そして漠然とした未来を、取り留めもなく考えていました。私の父も母も、私がたった一人の息子ですから万事に干渉して、その五月蠅《うるさ》いこと、五月蠅いこと! 何でもかでも子供みたいにおせっかいを焼いて、つくづくひとり息子なぞに生まれるものではない! と、先《せん》から感じていたのです。
 何の事件も起っていない今日までですらそれですから、九州のこうこういうところで知り合った混血児《あいのこ》の娘と、結婚したいなぞといい出したら、母なぞはびっくりして、眼を回してしまうかも知れません。その驚き顔が、今から眼の前に散らついてくるようです。しかし、どうしても結婚させてくれと私が頑張れば、結局は折れて私のいうことを容《い》れてくれるに違いありますまい。ただその承知させるまでが、大変です。
 死ぬとか生きるとか、かなり狂言も、して見せなければなりますまい。そして結局は容れてくれるとしても、今私は大学の三年ですから、後《あと》一年たって卒業したら、期限つきで許してくれるかも知れません。それとも、もう二、三年たって、インターンも済んで、一人前の医者になるまで待て! といい出すものでしょうか? そんなことばっかり思いめぐらしながら、黙々として道を歩いていたような気がします。
 そして、そんなことばっかり考えながら歩いている私にとって、やがて水門に佇《たたず》んで眼の前に展開されてきた、眼も遥《はる》かな混凝土《コンクリート》の溝渠《インクライン》は、興味でも何でもありませんでした……といいたいところですが、実際はこれもまた、大変な驚きだったのです。ジーナも恋も忘れて、私は眼をみはらずにはいられませんでした。なんというこれもまた、壮大きわまりない設備だったでしょう。なるほど二人の姉妹《きょうだい》が、私に見せたがったのも無理はありません。
 これこそ父親が、大野木村にある開墾地へ水を送るため、すべての施設に先立ってまず第一に、手をつけたものに違いありません。これだけはもう立派に完成しているのです。
 幅二間ばかり、側面が二尺ばかりも高く盛り上がった、厚い混凝土《コンクリート》の溝渠《インクライン》が、二十五度ぐらいの傾斜を帯びて、眼路《めじ》も遥かに霞《かす》んで、蜿蜒《えんえん》とうねうねとして、四里先の大野木村まで続いていると聞いては、ただその規模の雄大さに嘆声を発せずにはいられません。
 さすがに子供の時から異郷に彷徨《さすら》って、自分を助けてくれた恩人を、国内一の銅山王に仕立て上げたような人は、すること為《な》すこと考えていることやっぱり、日本人離れのした肝の大きなものだな! とつくづく舌を捲《ま》かずにはいられなかったのです。
 大野木村の入口には大きな池が掘ってあって、そこへこの溝渠《インクライン》の水は流れ込んで、そこから幾つかの小川に分れて、開墾地を灌漑《かんがい》してるというのですが、その途中にも二里くらいのところに、かなりの混凝土《コンクリート》の池がもう一つ設けられて、矢のように下《くだ》っていった舟はそこへ水煙立てて滑り落ちる、涼味スリル万斛《ばんこく》のウォーターシュートの娯楽施設を、兼ねているというのです。もちろん、ホテルの客の娯楽を目的としたものに違いありません。
「あすこに建ってるでしょう? 石造りの小屋が……」
 なるほど、物置小屋の二倍くらいの建物が、水辺《みずべ》に建っています。
「あれが、自家発電所になってますの。あすこで、電気を起して水門の調節をしたり、家《うち》へ電気も点《つ》くように、なってるんですけれど、戦争中からやってませんの。じゃ、今、爺《じい》やに捲き揚げさせますわね……あ、何か板切れでも、あるといいんだけれど……」
「嬢さま、これじゃ、どげんもんじゃろうかね?」
 それが六蔵でしょう、私に目礼しながら六十ぐらいの頑丈そうなオヤジが、大きな板切れを出しました。
「じゃそれをうかべて頂戴《ちょうだい》! 流すんだから」
「ようごぜえますか? じゃ、水を、出しますだよ……よっこらしょと! ――」
 と、六蔵の手が捲き揚げ機へかかって、ガラガラと重い水門の扉が、少しずつ開き始めます。ヒタヒタと、やがてチョロチョロと……次第次第に水嵩《みずかさ》を増して、やがて板切れは矢のように、流れ出しました。
「ほうら、速いでしょう? あんなに速く……もっともっと水が増すと、ボートや板に乗って、ちょうど、あのくらいの速さで、下るんですのよ。……ね、ほらほら、あんなに速くなるでしょう……?」
 手を叩《たた》いてスパセニアがハシャイでいるとおり、なるほどこのスリルと爽快味《そうかいみ》だけは、見たこともない人には、到底想像も及ばぬでしょう? 次第次第に水嵩と速度を増して、板切れは視界の向うに、見えなくなってしまいました。
「あの速さで四里|下《くだ》って、大野木の池まで行けば、どんな暑い日でも寒けがするくらい、涼しくなりますわよ。ね、暑い日が来るまで、遊んでらっしゃいよ
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