、二人とも生まれて世の中の不自由というものを、何にも知らずに育ってきたというのです。ただ、どんなに多くの召使に囲繞《いにょう》せられても、母のない身の淋《さび》しさだけが、いわば唯一の淋しさだったということができましょう。
祖父も言葉を尽して再婚を勧めましたが、父親は違った母を持たせては子供たちが可哀《かわい》そうだと、何としても再び結婚しようとはせず、大恩受けた祖父のために身を粉にして、その事業を助けてきました。その父親が、やっと故国へ帰ろうかという気になったのは、ジーナもスパセニアも大分大きくなった頃……心血を注いだゼニツア銅山が、押しも押されもせぬユーゴ一の大銅山になった安心があったからなのでしょう。
パパの生まれたお国へ、一遍いってみたいわ、連れていって頂戴《ちょうだい》よう! と、ある晩スパセニアが冗談をいったことから駒《こま》が出て、パパが日本を出てから、もう三十六年にもなるから、生きているか死んでいるかわからぬが、お前たちにも一遍日本のお祖父《じい》さんお祖母《ばあ》さんを逢《あ》わせてやりたいなあということで、急に日本へ帰ることになったのです。帰って来たのは、一九三九年の四月……。
「わたくしが、ベルグラードの中学校《ギムナジューム》へ入った年、スパセニアが十歳《とお》の春でしたわ」
もともとユーゴは日本とは関係の深い国ではありません。日本の事情なぞは、まるっきりわからないのです。姉妹はもちろんのこと、父親とても十四くらいで離れているのですから、まったくのユーゴ人になり切っているのです。いくらかでも日本語を忘れずにいたのが不思議なくらいでした。
「ですから帰りたては、言葉をスッカリ忘れていたとみえて、とんちんかんなことばかりいって、日本人同士、言葉がわからなくて困ってるのが、日本語のわからないわたくしたちにも、随分おかしゅうございましたわ」
とその時のことを思い出したのでしょう、ジーナは声を立てて、ホホホホホホホと笑い出しました。
「わたくしたちが帰って来た時は、もう支那と戦争が始まっていて、大東亜戦争の始まるちょうど、二年半ばかり前でした。長崎に住居を定めて、日本語がわかりませんからわたくしとスパセニアは、ジョレース女学院というのへ入りました。ここは仏蘭西《フランス》の修道院経営の宗教女学校《ミッションスクール》で、スパセニアは小学部へ、わたくしは女学部へ。故国《くに》では英語は一切使いませんけれど、仏蘭西語は子供の時から習ってましたから、この学校が都合がよろしかったのです。
そして二年ばかりは、ほんとうに楽しく暮していましたでしょう……家も大きいし、女中たちも大勢いましたし……自家用車もありましたし……初めは言葉がちゃんぽんになって日本の友達たちに笑われていましたけれど、そのうち日本語も困らぬようになりました。
……今思えば、その頃にユーゴへ帰ってしまえば、こんな苦しい目にも遭わなかったのかも知れませんけれど。でもまさかこんなに早く、戦争になろうとは夢にも思いませんでしたし……」
とジーナは、淋《さび》しそうな眼をしているのです。
「そして、平戸のお祖父《じい》さんお祖母《ばあ》さんに、逢わなかったんですか?」
と聞いてみましたら、
「もうみんな亡くなって……ただ叔父と叔母だけが住んでたそうですけれど……面白くないことがあったとみえて、父は愚痴っぽいことはいいませんけれど、お金だけ上げて、さっさと帰って来てしまいましたの。
お前たちを、食い物にするような人たちだから、決して近づいてはいけないって……お前たちの頼る人は、やっぱりユーゴのお祖父様や、叔父様叔母様のほかにはないって、いいましたの」
と、もっともっと、淋しそうな顔をしているのです。
「もともと父は、帰りっ切りに日本へ帰るつもりはなかったのです。せっかく帰って来たのだから、三、四年くらいいてまたユーゴへ戻ろうって! ……そして二、三年おきにユーゴと日本をいったり来たりするつもりでいましたの。ですから初めはこの家もこんなところへ住むつもりではなくて、ホテルを作るのに、父が出入りに不自由なもんですから、ほんの夏場の別荘のつもりで、建てただけなんですの。温泉が湧《わ》くものですから、やがてユーゴへ帰ったら、また祖父をつれて遊びに来るつもりで……」
「ほうここに、温泉が湧くんですか?」
「お気づきになりませんでして……?」
とジーナがおかしそうにほほえみました。
「昨日お入りになったの、あれ、温泉ですのよ」
いわれてみれば、私にも思い当るところがあります。西洋人やあちら帰りの人の風呂《ふろ》といえば、日本人の大嫌いな西洋風呂なのですが、ここの家の風呂だけはゆったりと大きくて、窓の色|硝子《ガラス》や広い洗い場や、おまけにタイルの浴槽《ゆぶね》からざぶざぶと湯がこぼれて、まるで温泉場みたいだなと、不思議な気がしていたのです。
父親の好みで拵《こしら》えた温泉だったのかも知れません。泉質はリューマチを患っている祖父に、一番効く食塩泉だというのです。
「温泉があって、泉質がいいばっかりに、発掘権を手に入れて、別荘のつもりで、ここを建てましたの。とても父が、気に入ったもんですから、それで観光地も作ろうという気になって……。
日本にはほんとうの外人向きの温泉がないから、ホテルを拵えてここへ日本一の温泉場を作って、祖父や叔父叔母みんなを連れて来て、喜ばせてやろうって気になりましたの。それで湖を買ったり、断崖《だんがい》に階段をつけさせたり、手を拡げ出したんですわ。でもその時分は、向うから持って来たお金もありましたし、ユーゴからお金も自由に取り寄せられましたから、ちっとも困りはしませんでしたけれども、大東亜戦争に入る半年ぐらい前から欧州からの手紙も送金も、パッタリ途絶えてしまって……。
独逸《ドイツ》は、前からソ連や英国と戦っていましたから、戦局の具合で国内が混乱してきたのではなかろうかって、心配して手を尽してみても、東欧の様子は少しもわかりませんし、そのうち日本も亜米利加《アメリカ》との間が険《けわ》しくなって、もういくらヤキモキしても欧州へは、行くことも帰ることもできなくなってしまって……。
故国から送金さえ来れば、こんなホテルや観光地ぐらい、わけなくできますのに、来ないばっかりにみんな、行き詰りになってしまったんですわ……」
「それで貴方《あなた》がたは、ここへお移りになったんですか?」
「それは、もっとほかの事情からですわ……ヤキモキしているうちにやがて亜米利加と、戦争になってしまいましたでしょう? もう外国人は、本国へ帰ることも自由に国内を旅行することも、できなくなってしまいましたの。……でも、それだけならば、わたくしたちまだこんなところへは引っ込んでしまいはしませんけれど……」
父親は、日本の籍を持って日本人だけれど、自分たちはユーゴ国籍で、日本の籍を持っていないというのです。戦争と同時に姉妹《きょうだい》二人は、三日にあげず日本の憲兵隊から厳重な取調べを受けて、日本の国籍を取得して日本人としての登録をしなければ、父親と引き離して姉妹だけは他の敵性国人同様、萄《ポ》領の澳門《マカオ》まで送ってそこで国外追放に処されなければならなくなったというのです。
慣れぬ他国も同然の日本へ来て、父に引き離されてわたくしたち二人だけ、身も知らぬ澳門なんぞへ追放されてしまったら、一体どうして生きていったら、いいんでしょう? スパセニアはまだ子供でしたけれど……わたくしたち生きた心地もなくて、毎日抱き合って、泣いてばかりいましたの。パパが心配して百方奔走して、日本国籍を取得しようとしましたが、わたくしたちの日本滞在日数が、二年と何カ月ではどうにもならず、毎日のように憲兵隊へ日参して、しまいにはその人が公使館武官でベルグラード在勤中、少しばかりのお世話をした縁故を辿《たど》って西部軍管区司令官の許《もと》まで、頼みにいってやっとのことでここに引っ込んで、――東水の尾の別荘に閉じ籠《こも》って、三里四方へ踏み出しさえしなければ、大眼にみておくという条件で、辛うじて国外追放だけは、免れたというのです。
「それで急に、こんな不便なところへ、越して来てしまいましたの。そうでなければわたくしたち、父と引き離されて澳門へつれて行かれなければならなかったんです。……わたくしたち女中も使っていませんでしょう? 敵性国人と見られて、監視されているんだから、辛《つら》くても謹慎して、少しでも憲兵隊の心証を害《そこ》なってはいけないと、父が心配して……わたくしたち、ラジオも写真機も、持っておりませんでしょう? 憲兵がここまで家宅捜査に来て、みんな没収していってしまったんですわ……」
それならもう、戦争も済んだんですから、いつでも長崎へ帰れるじゃありませんか! といったのに対して、ジーナは切れ長な眼を潤《うる》ませながら、こういう話をしてくれました。憂い辛いその四年間も過ぎて、いよいよ戦争も済んで、欧州の事情の判明した途端、この一家を驚かせたものは、独逸《ドイツ》の滅亡でもなければ、ソ連の東欧衛星国家群の確立でもありません。故国のユーゴ・スラヴィアが、チトー元帥《げんすい》を主班とする共産政権下の支配に移って、国内財閥の事業も財産もことごとく政府に没収されて、今では民間の資本というものが、ユーゴ国内に一つも存在しないということだったのです。
営々として心血を注いだ父親の一生の仕事は、まったく水泡に帰してしまったというのです。いいえ、一生の仕事が水泡に帰してお金のなくなったことなぞは、諦《あきら》めのつくことです。どうしても諦めのつかぬことは、その国内の混乱の最中に、旧財閥や旧富豪階級は、ことごとく共産政権の粛正の血祭りにあげられて、投獄されたり、追放されたり、死刑になったものも数知れずある、という噂《うわさ》だったのです。
今日まだ行方のわからぬものが、三万何千人とか! その筆頭第一に、大切《だいじ》な祖父のドラーゲ・マルコヴィッチの名前があげられて、叔父のウラジミールも、叔母のヴィンチェーラも、一族一門ことごとく、消息を絶っていることだったのです。
「あれから七年、……もう誰も、生きているわけもありませんわ。殺されているのか、乞食《こじき》のようになって、国内のどこかで死んでしまったのか? ……おわかりでしょう? 父はここを離れることが、できないのですわ。ここを処分して、新しい住居《すまい》へ移ることが、できないのですわ。ここならば、祖父も叔父も叔母もみんな、住所を知っています。ここを動いてよそへいったら、もし自分を頼って日本へ落ちのびて来た場合、さぞみんなが困るだろうって……。
もうホテルの夢もなければ、観光地の夢も何もなくて、ただ祖父や叔父叔母みんなの消息だけを待っているのですわ。どうしても諦めがつかなくて……今日は亡くなった知らせが来るか、明日《あした》は乞食のようになって、誰か頼って来るかって……。
お前たちは若いのだから、こんなところにいる必要はない、長崎へお帰りって……でも……父を見棄てて、どうしてわたくしたちばかり、そんな賑《にぎ》やかなところへ帰れましょう? いますわ……いますわ……わたくしもいますし……スパセニアも、いますわ……父と一緒に……一生涯でも! ……もうわたくしたちには、ここを離れて、帰るところは……どこにも……ありませんわ……」
陽《ひ》が雲に遮られて、湖水の上が薄《うっす》らと、翳《かげ》ろってきました。が、その瞬間に、私には今日まで二日間の疑問が、淡雪《あわゆき》のように消え去るのを覚えました。
なぜこの人たちには母親もなくて、そして明るい美しい立派な人たちでありながら、なぜこんな淋《さび》しい山奥の無人の高原なぞに、親子三人だけで暮してるのだろうか? という、今日までの疑問のすべてが腑《ふ》に落ちても、何としても私には、彼女を慰める言葉が見出《みいだ》せなくて、じっと、うなだれていたのです。
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