、わたくし、仕事のほかのことでは、そうお話したことありませんです……」
「……いつもお二人で、立派な馬に乗って、郵便物を取りにおいでになります。元は農場の農夫さんや、馬丁さんたちばかり来ましたけれど。その大学生の方の評判が立ってからは、お二人で仲よくいらっしゃいました。
別段わたくしたちには、何にも仰《おっ》しゃいません。ハイ、東京からは時々、片仮名の手紙が来ていました。絵葉書もまいりました。その時のうれしそうなお顔ったら! ハイ、覚えております、外国からも時々お手紙が来ますし、いつも四、五本ばかり郵便物をお渡ししますけれど、ほかの郵便なんぞ眼もくれずに、東京からの絵葉書だけ抜いて、窓口でお二人で顔を寄せて、読んでおいででした。向うの方は、そりゃ無邪気でいらっしゃいますから」
「……あの、郵便来ておりまして? と入っていらっしゃいますけれど、お二人同士は向うの言葉でお話しなさいますからハイ、わたくし共にはわかりませんです。
時々そういう葉書の来ている時、眸《め》を細めてうれしそうに、
『フヴァーラ……フヴァーラ・ワム』
なぞと仰《おっ》しゃることがございました。仏蘭西《フランス》語なのかお国の言葉なのか、わかりませんです。そしてお二人で笑って読んでいらっしゃいますけれど……ハイ、お帰りになる時は、
『ありがとう……ありがとう』
とわたくし共ににっこりしてお礼を仰しゃって、外に繋《つな》いである馬でお帰りになります。あのお嬢さんたちがいらした時は、若い男の人たちは大騒ぎでございます。でも、向うの方ですし……欧州で名高い大金持のお嬢様だと、みんな知っておりますから、ただ、溜息《ためいき》を吐《つ》いてたばかりじゃないかと思います……」
「……姉さんの方がいらっしゃらなくなってからは、妹さんがお一人でおいでになりました。お一人で白い馬に乗って……毎日のように一週間ばかりの間、おいでになりました。大変馬がお上手だとかで……ハイ、わたくしも一遍外で、お見かけしたことがございます。パッパッと馬をあおらせて、房々《ふさふさ》した髪の毛を靡《なび》かせて、お綺麗《きれい》な顔一杯に汗ばんで……これも村中の大評判でございました。外国の方は、どうしてああ恰好《かっこう》がいいものか! と見惚《みと》れたことがございます」
「……でも、お一人でおいでになった時は、お姉さんもお亡くなりになって、あの方がたった一人であの山の中に住んでいらっしゃるんだと後で聞かされました。……お父様もお亡くなりになって、お姉さんもお亡くなりになって、たったお一人でどんなにお淋《さび》しいことかと、涙が流れるような気がしました。でも、外国の方というものは、どうしてそう気丈なのだろうかと思いました。ハイ……いくら、みんながそういっても、あの方がお姉さんを拳銃《ピストル》で撃って、湖へお運びになったとは……どうしても思われませんです。
そんな恐ろしいことをなさるような方とは、どうしても思われませんです。警察の手で、みんなハッキリわかってるんだそうですけれど、それでも、今でもそう思えませんです。わたくしばかりではございません。村の人は今でもみんな、そういっております」
「……一番最後の時と仰しゃっても、その時がおしまいだとは知りませんでしたから、特別に覚えておりません。ただ、後から気が付いてみると、その時、何にも郵便はまいっておりませんと申上げましたら、特別に落胆《がっかり》なさって、随分じいっと考えていらっしゃったような気がいたします。そういえば、外へ出てからも、馬でお帰りになる時、何だかしおしおとなさって……。
父が、お前、お嬢さんは、電柱の陰で泣いていらしたようじゃないか! と、いっていたような覚えがあります。後で、その馬も大きな犬も、帰りにみんな開拓地へお預けになって、四里もあるところを歩いてお帰りになって、その晩、湖の中へ身を投げておしまいになったと聞いて、お心の中がどんなだったろうかと……泣けて、泣けて、仕方がありませんでした。
もうその時は、死ぬ覚悟をなすっていらしたんだなと思って……あんな可哀《かわい》そうなお嬢さんたちに、旨《うま》いことばかり並べ立てた、薄情な大学生が憎らしくて憎らしくて、早く死んじまえばいいと思って……ハイ、その人が亡くなったと仰しゃっても、ちっとも可哀そうだと思いませんです。いい気味だと思って……」
「……ハイ、そう仰しゃれば、今思い出しました。四月の中頃、東京から電報が来たことがございます。その時は、もうお姉さんはいらっしゃらなくて、妹さんが一人で通っていらっしゃる時でしたが、その電報をお渡ししましたら、大変悲しそうな顔をして、読んでらっしゃったことを覚えております。
返電は確か、お打ちにならなかったように思いますけれど……そこんところは、ハッキリしませんです……」
これが、故青年が神保町《じんぼうちょう》の通りで、ジーナの姿を発見して打ったという、例の電報のことであろう。もうその時は、ジーナが射殺せられた後であろうから、思いつめている青年から、ジーナが上京したかどうか? と、ジーナの安否ばかり尋ねた電報が来て、スパセニアは悲しんだのであろう。
いよいよ話は、私の最も知りたいと思っていた、核心へ入ってくる。
「……お姉さんをお撃ちになった時のことは、みんなが知りたがっていますけれど、誰も見たものがないのですから、どうしてもハッキリしたことは、わかりませんです。
お姉さんが一番最後に郵便局へいらしたのはいつ頃か? その点を聞きたいと父も私も二度ばかり、小浜《おばま》の警察へ呼ばれました。事件が起ったのは、四月の十四、五日頃から十六、七日くらいの間だろうと刑事さんもいっていられました」
「……何でも、事件の起る二日ぐらい前とかに、馬丁《べっとう》の福次郎さんという人が、用があって東水の尾へ、登って行きましたそうです。その時はまだお姉さんの方も、生きていらっしゃったそうですけれど……。
家へ入ろうとしたら、ふだん仲のいい姉妹《きょうだい》が声高《こわだか》に諍《さか》いをしていられましたから、福次郎さんも躊躇《ちゅうちょ》して、しばらくそこに、立っていたのだそうです。お姉さんの声は、聞こえませんでしたけれど、
「わたしと貴方《あなた》と、どちらかがいなくなれば、スグ解決のつくことなんだわ。どうせわたしだって、もう、生きてようとも思わないけれど、死ぬ前に黒白《こくびゃく》だけは、つけたいわ。あの方の真意も知らずに、死ぬのは死んでも死に切れないわ」と、大変昂奮して妹さんの方が仰《おっ》しゃるのを聞いたとか、後で山田さんという刑事の方が、家へ見えられた時に話していられました。
どうせまたあの大学生のことで、姉妹の間に諍いが起ったんだろうと、その時は福次郎さんも思っていたんだそうですけれど、そのほかには誰も山へ登ったものがありませんから、詳しい経緯《いきさつ》はどうしても、わかりませんそうです」
「……ハイ、山田刑事さんの仰しゃるのには、四月の十四、五日頃から十六、七日くらいの間に、お二人がお父様のお墓|詣《まい》りをしていられた時に、また諍いが起ってその時かっとして、妹さんがお姉さんをお撃ちになったんだろうって……。
そして、死体を湖へ引き摺《ず》り込んだに違いないと、そういっていられました。お姉さんの死体の上がった場所や何かから見て、警察の方ではそういうことに、決まってるという話でございました」
靴を隔てて痒《かゆ》いところを掻《か》くような、物足りなさは感じるが、四里四方一軒の人家もない山の中の姉妹間の争いであり、処理したのが田舎の警察では、これ以上聞き質《ただ》してみても仕方のないことと、私も諦《あきら》めた。
小浜《おばま》に引き返し、牧田氏の案内で亀屋旅館に投宿する。
先刻の都留《つる》五八氏が訪ねて来てくれた。夕食後、牧田氏、都留氏と卓を囲んで会談する。話によれば、平戸にいる故石橋氏の弟、妹たちから欲に絡んで、東水の尾にある残余の地所、ホテル建設用の地下工事の資材、同じく大野木村に至る、四里の混凝土《コンクリート》の溝渠《インクライン》等、マンガン鉱山の担保になっていなかった一切の資産に対する、継承権の訴訟が起されていたが、生前から平戸の親戚一同を好まなかった石橋氏の遺志を尊重して、水の尾村が主体となって法廷でようやく勝訴の判決を得て、水の尾村では近く、柳沼の水を水不足の沢谷郷方面へも供給すべく、水路の開鑿《かいさく》工事を行う予定だということであった。
スパセニアが投身自殺を遂げた最後の日、開拓地へ残していった愛馬のジュールと、犬のペリッ……ジュールは八十五万円、ペリッは二十七万円で、それぞれ小倉と長崎の素封家《そほうか》へ引き取られて、これらの金は、ことごとく水の尾村役場の石橋家財産管理委員会へ納められたが、管理委員会は目下外務省に依頼して、ドラーゲ・マルコヴィッチ氏一族を捜査中であると、都留氏ともども牧田助役から聞かされる。
あとがきの二
六月十三日、牧田氏、都留氏同行、東水の尾へ車を走らせる。
なるほど万里の長城のごとくに蜿蜒《えんえん》として、見事な混凝土《コンクリート》の溝渠《インクライン》が走っている。彼方《かなた》の丘に見え隠れして、時々車窓近くに並行してくる。故青年が二度目に来た時には、混凝土《コンクリート》の底に、雑草が茂っていたと話していたが、今は溢《あふ》れんばかり満々たる急流を湛《たた》えて、矢のような勢いで走っている。
それを眺《なが》めていると、人|亡《ほろ》びて山河あり、といった言葉がしみじみと思い出される。この大規模な溝渠《インクライン》を設けた人も、そこに遊び戯れていた娘たちもすでに亡く、その話を私に伝えてくれた青年も、もはやこの世の人ではない。
人の命の脆《もろ》さ儚《はかな》さが、今更のように胸に迫ってきて、哀切|一入《ひとしお》深きものがある。
東水の尾岬の突端に立つ。なるほど、故青年が激賞したとおり、天下の大景観である。
断崖《だんがい》の直下、脚下|遥《はる》かの岩に砕くる数丈の飛沫《しぶき》は、ここに立つもなお、全身の濡《ぬ》れそぼれる心地がする。魂《こん》飛び眼|眩《くら》めくというのは、こういう絶景を形容するに用いる言葉であろう。
万里の波濤《はとう》を俯瞰《ふかん》し睥睨《へいげい》する大ホテル現出の雄図、空《むな》しく挫折《ざせつ》した石橋弥七郎氏の悲運に同情するもの、ただひとり故柳田青年のみならんや!
見終って、地下工事場跡へ歩を転じた時、水番の六蔵の出迎え来たったに逢《あ》う。
「到頭あのお若けえ書生さんも、お亡くなりなせえやしたか? そりゃまあ、お気の毒なこんで……さぞ親御《おやご》様も、お嘆きでござらっしゃりましょう」
と朴直《ぼくちょく》そうな六十|爺《おやじ》は、湖岸から半道あまりを駈《か》けつけて来た禿《は》げ頭の汗を押し拭《ぬぐ》いつつ、悔やみを述べる。
「でもまあ、有難てえ、といっちゃ悪《わり》いでやすが、……こいでまあお嬢様お二人も、もうこの世に何にも思い残しなさることもねえようなわけで……今頃はお三人で、楽しく三途《さんず》の川原ででも、遊んでおいででやしょう……なむまいだぶ……なむまいだぶ……」
六蔵に連れられて、牧田氏、都留氏ともども、地下工事場跡を見る……故石橋氏邸の焼け跡を見る……柳沼を見る。
壮大とか、瀟洒《しょうしゃ》とか、幽邃《ゆうすい》とか、余計な形容詞なぞは、一切省くことにしよう、ことごとく青年の話の中に詳しいから。
ともかくこれらを見た私の感じを一言にしていえば、故青年が私に話してくれたところには、一点一画のウソも偽りもないということであった。
地下工事現場には、大勢の人夫が入り乱れて、福岡の貝塚合名会社地所部とした貨物自動《トラック》車が、十二、三台、盛んに取り毀《こわ》した工事場の鉄梁《ビーム》や、鉄柱を積み込んでいた。
福岡に建つ大き
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