な六階建てのデパートの、建築資材にするのだという。湖の回りにも、人夫や測量師|体《てい》の男たちが入り乱れていた。
邸《やしき》の焼け跡では、淋《さび》しく花をつけた蔓薔薇《つるばら》の二、三枝を折りとった。あとで、石橋氏の墓前に、供えたいと思ったからである。
大分雑草も刈りとって、自動車道路が設けられてあるから、昔日の高原の趣きとは、いくらか違っているかも知れぬ。待たせておいた車を駆って、いよいよ湖岸西北方、故人が涙を呑《の》んだ例のマンガン鉱山を、南方の碧空《へきくう》に仰いだ小山の麓《ふもと》に、石橋弥七郎氏の墓を訪《おとな》う。
水番小屋より、ここまで二十一丁……それがこの辺産出の三根石《みつねいし》というのであろう、鈍い紫色の膚を光らせて、さして大きからぬ墓一基、黙々としてそそり立つ。
訪う人も来る人もなく、ただ一基……折しも陽《ひ》雲にかくれて晩春の気|蕭条《しょうじょう》! ここに数奇《すうき》の運命の人眠る。裏の林に名も知れぬ小鳥|啼《な》いて、鳥の心……石橋氏の心……ただ何となく、涙のしたたり落ちてくるような気持がする。
なむまいだぶ……、なむまいだぶ……と、六蔵の念仏のみが、痛切に胸に沁《し》み込んでくる。合掌して、焼け跡から折り取って来た生前遺愛の蔓薔薇《つるばら》を供え、香を焚《た》く。運命の人よ! 八十年生きるも百年生くるも、人の世はすべてこれ夢! 地上すべての煩《わずらわ》しさを断って、悠々《ゆうゆう》と安らかなる眠りを眠られよ!
牧田氏の知らせによって四里の道を越えて故青年の所謂《いわゆる》、伊手市《いでいち》どん……水の尾村の石工《いしく》、吉永伊手市氏と、肥後屋の亭主、半田|藤五郎《とうごろう》氏が来てくれる。藤五郎氏が背負って来た弁当を、自動車中で認《したた》めて、いよいよ姉妹《きょうだい》の墓に詣《もう》ずるべく湖岸を西に向って歩き出す。
故石橋氏の遺志を継いで、東水の尾岬一帯を水の尾村営の温泉観光施設とすべく、すでに水の尾より二里ばかりの間は、自動車路が完成したという。が、こちら側はまだできていないから、これから一里半ばかり姉妹の墓のあるところまでは、歩かなければならぬ。
「湖は、真ん中よりもかえって、この辺の方が深いでがして……」と六蔵が教えてくれる。
「スパセニア嬢様の死体は、発電|小舎《ごや》の近所から上がったでやすが、ジーナ嬢様の死体は、ついその辺から上がったでがして……」
とすれば、左前頭部に一弾を受けて、ジーナが血煙立てて倒れたのも、またこの辺であろう。万籟《ばんらい》闃《げき》として声を呑《の》む、無人の地帯にただ一人、姉の死体を湖の中へ引き摺《ず》り込むスパセニアの姿こそ、思うだに凄愴《せいそう》極まりない。その辺になお血痕《けっこん》斑々《はんはん》として、滴り落ちているかと疑われんばかり、肌《はだ》に粟《あわ》の生ずるのを覚ゆる。
このあとがきをつけるのは、正確な記録を申上げるためなのだから、まず山の名から詳細に書いてゆこう。今登ってる山を唐倉山《からくらやま》という。この山腹を伝い登ること約三十町、志方野を越えて、さらに次の山路に入る。この山を朝倉山という。スグ続いて赤名山の山腹に入る。
この三分の一行程ぐらいのところで、いよいよ問題の細道……※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》と栃《とち》の大木の繁《しげ》り合った、草むらへ出るのであるが、これらの山道は、いずれもさほど急峻《きゅうしゅん》なものではない。が、頭上に山の頂や隣の峰々が高く聳《そび》え立ち、全山ことごとく樹木|鬱蒼《うっそう》として昼なお暗く、夏でも鳥肌立って、寒けを感ずるであろうと思われる。
「ほら! あすこでごぜえます……あすこであの旦那《だんな》様は、休んでいらっしゃったでごぜえます」
不気味そうに藤どんなる藤五郎氏の指さすところに、なるほど一際こんもりとした、老樹が二本|縺《もつ》れ合っている。
「うとうとしていられると、ちょうどあの木の下から、お嬢様がお二人で、降りていらしたでごぜえます」
もはや噂《うわさ》はこの辺の、静かな山村一円にも拡がっているのであろう。
なむまいだ、なむまいだ、と六蔵が眼を閉じて、また念仏を唱える。いよいよ問題の老樹の下に立つ。
「じゃ、こんだア、こっちの方へ登りますで……大分狭くなってめえりますで、足許《あしもと》に気イお付けなすって……」
詳しくいえば、水の尾村|字亀瀬《あざきせ》というところだそうである。姉妹《きょうだい》二人は墓からこの道を伝わって、さっきの木の下へ出た、と連中はいうのであるが、これは道とは名のみ! 幅一尺もあるかないかの小径《こみち》に過ぎぬ。それが幾年にも人の通ったけはいもなく、両側から丈《たけ》高い熊笹に掩《おお》われている、胸許までといっては大ゲサ過ぎるかも知れぬが、股《もも》のあたりくらいまでは、確かにあったであろう。
それがビッシリと小径《こみち》を掩《おお》い隠して、木の下からこの辺まで約五町くらいもあろう。この辺から黄櫨《はぜ》の木立が、眼立って多くなってくる。
「この辺でごぜえやす。この辺まで下《くだ》って来ますと、あの旦那《だんな》様が、ワァーッ! と逃げ出しになったので、みんな怯気《おじけ》づいて、出たア! と、いやもう大変な騒ぎで逃げ出したでがす」
藤五郎氏、伊手市氏両人とも、それ以来ここへ来るのは、今日が初めてだという。
「旦那様、見えますでやしょう? あすこに小さく……あれがお墓でごぜえやす」
なるほど、ポツンと二つ墓も見えるが、それよりもこの景色! なんという素晴らしさ! なんという美しさ、さっき飛沫《しぶき》を上げる東水の尾岬に立って発した感嘆とは、また異なった嘆声をもう一度、私も上げざるを得ぬ。
傾斜を下り切って、今この野原に立って眼を上げる。見ゆる限り草|蓬々《ぼうぼう》たる大野原! 四周を画《かぎ》って層々たる山々が、屏風《びょうぶ》のごとくに立ち列《つら》なり、東北方、山襞《やまひだ》の多い鬱然《うつぜん》たる樹木の山のみが、その裾《すそ》を一際近くこちらに曳《ひ》いている。
陽《ひ》はその中腹あたりの岩肌をキラキラと輝かせているが、天地万物|寂《せき》としてしかも陽だけが煦々《くく》として、なごやかにこの野原に遊んでいる。
向うの山の頂に美しい白雲が泛《うか》んで、しかもその白雲の翳《かげ》を落としているあたり、ヒョロ高い松が二、三本|聳《そび》えて、その根元に墓が二つ……。
あすこに、美しい娘たちが眠っているのかと思うと……青年ももはや亡く、ただ不思議な縁で、何のゆかりもない私が今、その墓|詣《まい》りに来ているのかと思うと、万感こもごもわき起ってくる。
「あ、旦那様、足許《あしもと》がお危のうごぜえます……」
「貴方《あなた》が、あのお嬢さんたちのお墓を彫ったんだそうだね?」
「へえ、左様でごぜえます。手前が……」
「お嬢さんたちは、生前ここが大好きだったから、それでここへ葬ったとか……」
「旦那様は、大層よう御存知で……」
「ここからあすこまで、どのくらいあるのかね?」
「近くに見えとるでやすが、さ、まだ七、八町の余《よ》もごぜえましょうか?」
熊笹がいよいよ多くなる。ますます黄櫨の木が殖《ふ》えてくる。もはや人はほとんど通らぬとみえて、六蔵や、伊手市氏、牧田氏、藤五郎氏たちが先に立って踏み分けてくれるからついて行けるが、私ひとりだったら、とても行き着くことは思いも寄らなかったろう。
無言でしばらくガサゴソと、熊笹を分ける。蛍草《ほたるぐさ》や竜胆《りんどう》風の花が、熊笹のあちらこちらに見える。野生の石楠花《しゃくなげ》が処々に咲いている。
この景色を最も好んでいたとはいえ、死後もなおそれを忘れずに、二つの屍体《したい》を運び、重い二つの墓石を運んだ馬丁《べっとう》の福次郎と六蔵との純情にも感ずるが、この二人をして、それほどまでにも追慕させている、亡くなった二人の姉妹《きょうだい》の心の温かさも偲《しの》ばれる。
十六町の道を、全部踏み分け終って、今ようやく墓の前に立つ。
二本の松は赤松であった。その根元の小高い丘の上に……今私の立っているこの足許《あしもと》に、もはや姉と妹ととは争いもなく、平和に眠っているのであろう。
三根石《みつねいし》は、紫色の膚を光らせて、台石もなく土の上に突っ立っている。
向って右が、
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石橋 スパセニアの墓
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左が、
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石橋 ジーナの墓
[#ここで字下げ終わり]
幽蘭香《ゆうらんこう》を焚《た》いて合掌する。香煙はゆらゆらと立ち昇って、墓の面《おもて》を掠《かす》め、そして、私は憮然《ぶぜん》として、墓をみつめて立つ。
死後の世界では、人間はことごとく霊のからだと化して、恋もなければ愛もなく……嫉妬《しっと》……怒り……悲しみ……嘆き……肉に属するもの一切は、ことごとく消え失《う》せてしまうという。
そして、ただ幼児《おさなご》のように楽しく遊んでいると聞く。
石橋スパセニア嬢よ、石橋ジーナ嬢よ、生きていればこそ、人間愛欲の争闘もあれ! 死んだ今となっては、地上の悩み一切を忘れて、ただ楽しく……ただ楽しく……三人で幼児のように楽しい日をお送りなさい! と私は眼を瞑《と》じて黙祷《もくとう》した。
「こんな淋《さび》しいところに親子別々に葬っておくのは、可哀《かわい》そうじゃありませんか! お父さんのお墓も、ここへ一緒にして上げたら、いいじゃありませんか!」
と私は牧田氏を顧みた。
「そうするでがす。わしもそう思うとるでがす」
と、牧田氏の言葉はなくて、六蔵が引き取った。
「今日までは幽霊だとか何だとか、わしも気味《きび》悪かったでやすが、旦那様がおいでになって、もうなんともねえでがすから、早速そうするでがす……」
風が梢《こずえ》を颯々《さっさつ》と鳴らして、香煙がゆらいでいた。
底本:「橘外男ワンダーランド 怪談・心霊篇」中央書院
1996(平成8)年6月10日第1刷
初出:「小説春秋」
1956(昭和31)年4〜5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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