どんなに書き辛《づら》かろうとも、また書き損なって真っ黒々の消しだらけにしようとも、なぜもっともっとせっせと片仮名のハガキや手紙を出さなかったろう? ……と。二人は、さぞ私を恨《うら》んで死んだろうと思うと、いても立ってもいられぬくらい、心苦しさが感じられて、夢に夢見る気持のうちにも、ただそのことばかりが、痛切に胸を刳《えぐ》ってならなかったのです。
 が、しかし、亡くなったということは、それで確実だとしても、さっき一緒に連れ立って来たあの二人が、亡霊であろうとは! これだけは何としても、信じられません。そんなバカげたことが、今の世の中に一体、あり得ることでしょうか? 今の世の中に、人間の亡霊なぞということが!
 が、しかし、そうして二人が死んでしまっていることが確実とすれば……それなればさっき連れ立って来た、ほほえんでいたあのジーナとスパセニアは、一体何者だということになるのでしょうか?
 しかも、さっきあの二人は、明日《あした》の朝また迎えに来ると……この橋のところまで、迎えに来るといっているではありませんか! バカバカしい、山の中のこんな無知な宿屋の亭主や、石屋のオヤジなぞと話してるよりも、明日の朝になれば、一切わかることなんだ……きっと死んでる人が、人違いかも知れないんだと、私は心の中で叫びました。……が、しかし……さっき逢《あ》ったあの二人も、そういわれてみれば、何だか寒けのするような人だったし……。
 その私の考えが顔に出て、自然亭主や石屋にも感じられたのかも知れません。
「明日またいらっしゃるなぞとは、飛んだことでございます。絶対に、いらっしゃってはなりましねえ。旦那《だんな》様をお連れするために、出ていらしたに違《ちげ》えございません。旦那様は、魅込《みこ》まれてらっしゃる! 恐ろしいこんだ……恐ろしいこんだ! 旦那《だんな》様、決していらっしゃっちゃなりましねえ……命はごぜいましねえ!」
「しかし、幽霊なぞと……そんなバカなことが! 信じられん……どうしても、僕には信じられん!」
「いくら旦那様が仰《おっ》しゃっても、幽霊が出たものは、仕方ねえじゃごぜいやせんか? では、早い話が旦那様! 旦那様はさっき仰しゃいましたでしょうが! 村の境《さかい》の石橋のところまで、送って来てくれたと。それでございます。……一体その時刻は何時でございます? その時間に、いくら星は出ていても、この暗《やみ》の中さ、山ん中へ、あれから二里も三里も、弱い女の足で、どうして帰れるでやしょう? 足はともかくとしても、恐ろしくて若い女なぞに、どうしてあの山ん中へ……」
「でもこの辺は慣れてるといってた……」
「冗談じゃございません。いくら慣れてるとこだって、この真っ暗な晩に、人っ子一人通らぬ山ん中へ、三里も四里も……さっきそれを伺った時から、もうからだがゾクゾクして……ああ恐ろしい! こげんに恐ろしいこたアわしも初めてだ……」
 亭主の陰に身をちぢめて、内儀《かみ》さんなぞは生きた顔色もありません。
 ともかく、あの可哀《かわい》そうなお嬢さんを騙《だま》した薄情な大学生は、どうせ碌《ろく》な死に方はしまいという、村の評判だというのでしたが、
「旦那様がそのお方だとは、夢にも知りましねえで……ただ、村方《むらかた》でそういう噂《うわさ》をしとりますもんで……お気をお悪くなすっちゃ困るでやすが」
 と、亭主は気の毒そうな色を泛《うか》べました。
「でも、まあ、よく訪ねておいでになりました。これでお嬢様二人も、お泛ばれになりやすでしょう。それで、お二人で喜んで、そこまで送っておいでになったに違《ちげ》えごぜいません」
 と茫然《ぼうぜん》と考えてる私を、慰めてもくれました。
 そんな話のうちに、夜もふけて、やがて人々は別れ去って、私も疲れたからだをやっと蒲団《ふとん》に横たえましたが、どんなに私が輾転反側《てんてんはんそく》してその夜一晩、まんじりともせずに夜を明かしたかは、もう先生、貴方《あなた》にも想像していただけるであろうと思います。
 その晩、私の部屋では別段、明日の朝どうこうという相談もなかったように思いましたが、私の部屋を出た後ででも、あるいはそういう相談が纏《まと》まったのかも知れません。
 翌《あく》る朝眼が醒《さ》めた時には、怖《こわ》いもの見たさからか、好奇の色を泛べた村の若い者たちが七、八人、手に手に棍棒《こんぼう》や鳶口《とびぐち》を持って草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》姿で、その間には昨夜《ゆうべ》の石屋のオヤジもいれば、またその背後《うしろ》にいた三十二、三の男、宿屋の亭主も交じって、意気込んでいます。もし幽霊が出たら、それで切ってかかるつもりか、中には大きな鎌《かま》を持った男もいます。
 もちろん、幽霊などが出るはずはありませんけれど、もしも何かの間違いということがあって昨夜|逢《あ》ったのがほんものの姉妹《きょうだい》で、もし今日私を迎えに出て来てくれた場合、いきなり暗雲《やみくも》に切ってかかられてはなりませんから、その大鎌だけは見合せにしてもらいました。
 ともかく、私は昨夜まんじりともしていないのです。二時が鳴ったのも知っています。三時を打ったのも知っています。そして四時も……つい、とろとろとしたら、もう朝の五時……遠くで鶏《とり》が鳴いたかと思ったら、もうワイワイと棍棒、鳶口の一隊です。
 亭主に催促されるまま、朝飯もそこそこに私も身支度《みじたく》を整えましたが、今考えてみてもその時の自分の気持だけは、私にも、どうしてもわからないのです。昨日までの私は、ただジーナやスパセニアが懐かしい、恋しい気持で一杯でした。しかし、今はもうそんな気持は微塵《みじん》もないのです。ただ絶えず襟元《えりもと》首を冷たい手で撫《な》で回されてるような、ゾクゾクした気持で一杯です。そしてその中から、この一隊のことを笑えない好奇心にも燃えていました。
 ただ違うのは、棍棒や鳶口の一隊は、幽霊ということにすべての好奇心が動いていたのでしょうが、私のは何かの行き違いということもあって、墓の主になっているのはジーナやスパセニアではなくて、あの二人はひょっとしたらやっぱり今日、私を迎えに出てくれるのではなかろうか? というところに、万一の好奇心が動いていたといった方が、いいのかも知れません。

      十三

 ともかく昨夜の怯《おび》え切っていた姿はどこへやら! 今朝《けさ》は大勢仲間がいるからかも知れませんが、いずれも意気|颯爽《さっそう》として、燃えるような好奇の眼を光らせています。雄風凜々《ゆうふうりんりん》として、鬨《とき》の声を上げんばかりの張り切りようです。夏の早暁の、爽《さわ》やかな朝風を衝《つ》いて、昨夜二人と別れたあの石橋のところまで来ました。
「旦那《だんな》様、ここまで送って来たとか仰《おっ》しゃいましたな?」
 と、亭主が寄って来ました。
 もちろん、森も、山も、野も丘も、まだみんな深い朝靄《あさもや》の中に眠って、姉妹《きょうだい》の姿なぞの、その辺に見えようはずもありません。一同の緊張がいよいよ増して、昨日二人の分け入っていったあの萱《かや》や、薄《すすき》、茅《ちがや》なぞの胸まで掩《おお》うた細い山道にかかります。小暗い繁《しげ》みも抜けて、つづら折りの第一の山道にさしかかります。
 この辺では、この山を矢上《やがみ》山と呼んでると、一人が教えてくれました。一里ばかりもその山を登ると、その奥がいくらかだらだら下りになって、道は山の中腹をいく曲りもいく曲りも……右手に深い谷を隔てて、層々として深い山脈《やまなみ》が走っています。渓谷を越えて、また二里ばかりの深い山道……いよいよ東水の尾へ抜ける最後の山の背梁《はいりょう》になりますが、足の弱い女連れ、殊《こと》に昨夜《ゆうべ》は疲れて薄暗い夕方のせいか、心気|朦朧《もうろう》として、随分手間取った道も今日は男ばかりの、しかも元気一杯に、朝の十一時頃にはもうその山の背梁も越え終って、いよいよ赤名山を左手に眺《なが》め始めました。
 しかも、半信半疑で、今に現れるか、今にその辺の木陰から、二人が迎えに出るか? と胸を躍らせていたにもかかわらず、到頭どこにも姿は見当りません。してみると……してみると……やっぱり昨日の二人は……? と疑念が胸に忍び寄ってきた時分、
「旦那《だんな》様来やしたぜ、いよいよ来やしたぜ……昨夜《よんべ》お逢《あ》いになったのは、あの辺と違《ちげ》えやすかね?」
 と石屋が寄って来たのです。
 遥《はる》かの下方に見える※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》と栃《とち》の大木の、一際|蓊鬱《こんもり》した木陰、そこで道は二つに分れています。一つは東水の尾へ下って行く道……すなわち、私が昨日登って来て、その下の方で一休みしたところです。左手の草むら隠れの小径《こみち》は、あの二人が現れて来た道です。
「あの道でやしょう? 旦那様! 出て来たと仰《おっ》しゃるのは……?」
「そう……あの木の下あたりから……」
「間違《まちげ》えねえ、旦那様! 確かにお嬢さんの幽霊だ! ほら、早く来て御覧なせえ! ……そこを駈《か》け上ると、見えまさア! ずっと向うにお墓がある!」
 急に勇み立った四、五人の後から、急いで小径を駈け上ってみると、なるほど、なるほど、見えます、見えます! 左手遥かに眼の下が開けて雑木林の陰になって、道はうねうねと夏草や熊笹隠れに、眼も遥かに下方へ下って、なんという素晴らしい眺《なが》めでしょう?
 四周を紫色や濃紺の山々に画《かぎ》られた、夏草茂る盆地……ゆるやかな一面の大野原……しかもしかも、その野草の中ほど小高い丘の上に二、三本の松の木がヒョロヒョロと聳《そび》えて、その根元にハッキリと並んだ二つの墓……。
 もう疑いはありません、ジーナとスパセニアの墓です。そしてそしてあの墓の下に、額《ひたい》を撃たれて糜爛《びらん》したジーナと、スパセニアの亡骸《むくろ》が私を恨《うら》んで、横たわっているかと思うと、見えも恥もなく、総毛だってガタガタと私は、震え出しました。
 もう間違いはなく、あの二人は亡霊だったのです。今の世の中にあるもないも何もあったものではありません。私が訪ねて来たことを知って、水の尾村へ行くことを知って、墓から抜け出して、この態笹の道を通ってあの栃《とち》と※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の木陰から、姿を現したものに違いありません。
 しかも、そうとは知らず、あの淋《さび》しい薄暗い山道を、二時間も三時間も連れ立って……あの青白い顔、淋しいほほえみ……また明日《あした》お迎えに……上がりますわ……。
 その瞬間、私の思い出したのは、あの神保町《じんぼうちょう》の人混《ひとご》みの中で見たジーナの姿だったのです……それから一週間ばかりたって、門前に佇《たたず》んでいた、あの恨めしそうなスパセニアの顔だったのです……そうだ、もうあの時は、二人とも死んでいたのだ。そして死ぬとすぐ二人とも、私を迎えに魂が飛んで……来た……のだ!
「おうい、ちょっと待ってくれえ! 旦那《だんな》様、どうしましたえ? 早くいらっしゃいませえ!」
 と、亭主は向うから声をかけましたが、私は立ちどまったまま、足が竦《すく》んで進まないのです。ただ意気地なく、からだがガタガタ震えて……。
 何と叫んだか、もう覚えがありません。気が付いた時は夢中で、私は山を駈《か》け上っていたのです。今来た水の尾への道を!
 そして、私が逃げて来ると同時に、先に進んでいた連中もワーッと血相変えて、算を乱して駈け上って来るのは覚えていましたが、ただそれだけ! 悪寒《おかん》のようにからだがブルブルブルブル止め度もなく震えて、息を継いでは走り、また継いでは走り、そのほかのことは何の覚えもありません。ただ、いくら走っても走っても、今見た墓の恐ろしさだけが眼に焼き付いて、何としても離れないのです。
 昨夜《ゆうべ
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