》にしようと……そして女二人のいるところへ押し掛けては悪いから、では今日はこのまま山を下《くだ》って、水の尾村に泊って、明日の朝はスグここへ飛んで来て二人から詳しい事情を聞くことにしよう! と思いました。そして二人に勧められるまま一先《ひとま》ず山を下ることにしたのです。が、二人ともこの先まで、道がわかるところまで送って行くと、私と連れ立って山道を辿《たど》り始めました。
疲れ切っていましたからハッキリとは覚えませんけれど、その時はもう五時過ぎぐらいではなかったかと思われます。山の陰、木の陰は薄《うっす》らとしていましたが、遠くの空は八月ですから、まだ明るく冴《さ》えていました。私も草臥《くたび》れていましたし、二人も沈み切って、お互いに黙々として歩いていたのです。
私が口を開かなければ、二人とも別段口をきくでもなく、ただ時々眼が合うと、ジーナもスパセニアもにっこりとほほえんでいましたから、私にも別段それ以上、奇異な感じも起らなかったのです。
暗い湿《じ》っとりした谷間《たにあい》を通って、道はまた次の山へ登りになって、やっと最後のこんもりとした山の中腹を回ると、眼下|遥《はる》かの向うに、村らしい家々の屋根が、模糊《もこ》たる夕靄《ゆうもや》の中に点々と眼に入りました。
「あれが水の尾ですか?」
言葉はなくて、ジーナがかすかにうなずきました。
「ではもう、いいですよ……もうわかりますから……明日は早く訪ねて行きますから、さ、貴方《あなた》がたはもう、お帰りなさい、帰りが大変だから……」
「でも、わたくしたち……この辺は慣れていますから……もう少し行きましょう」
お帰りなさい、お帰りなさいと口ではいってるくせに、実際は私も別れたくありませんから、また、いつの間にか連れ立ちましたが、別段話とてもなく、それからでも、半道や小一里近くは送って来てくれたかも知れません。山はいよいよ暮れて、もう木の下、足許《あしもと》にはずんずんと黄昏《たそがれ》の色が、濃く漂ってくるのです。やっと私も気が気でなくなって、今度こそ真剣に何度帰るように勧めたか知れません。もうちょっと……もうちょっと……ほんのそこまでと、名残《なごり》惜しそうに送って来てくれるのです。
ようやく何度目かの勧めで、やっと、では、というように二人が立ちどまった時には、もう小半町先は、ものの弁別《あやめ》も分かぬ薄暗《うすやみ》に包まれていました。
「では明日《あした》また、この辺までお迎えに上がりますから」
「いいえ、いいんです、いいんです! こんな遠くまで……では、明日は早くいきますよ……さっきお逢《あ》いした、あの木の下を左へ曲ったところですね……家が建ってるのは……?」
暗の中で、二人がうなずいたように思われます。
「それならここで……さようなら……」
二人はほほえみながら、そこに立ちどまりましたが、やがて縺《もつ》れ合いながら段々と、暗の中へ溶け込んで……到頭見えなくなってしまいました。そして、見えなくなっても、ぼんやりとまだ私は、二人の後を見送って佇《たたず》んでいたのです。
二人の送って来てくれたところは、村境《むらざかい》とみえて、そこには夕暗にも著《しる》く、大きな自然石を並べた橋が架かって、橋の向うはもう坦々《たんたん》たる村道になっているのです。遥《はる》か彼方《かなた》に、灯《ともしび》が瞬《またた》いて、私の方はこの村道に沿ってさえ行けば、やがて教えられた村の宿屋にも行き着くでしょう。が、二人はこれからあの淋《さび》しい夜道を……空に星が燦《きらめ》いているとはいえ、あの淋しい山道を、二里半もどうやって帰って行くのでしょうか?
馬に乗ったからとて淋《さび》しいし、犬を連れたからとて淋しいのに、その馬もいなければ犬もなく、あんな淋しい山の中を、一体どうやって帰って行くのでしょう? ……懐中電灯でも持っているのか知ら? ああ、もっと早くあの二人に帰ってもらえばよかった! と、私はぼんやりして気づかなかった自分を後悔して、二人の消えた暗《やみ》を見送っていました。
そして、なぜ今もそんな淋しいところに、家を建てて住んでるのか知ら? どうして山を離れる気になれないのだろう? なぞと取り留めもないことを考え耽《ふけ》っていましたが、いくら後悔して立っていたからとて、もう見えなくなってしまったものを、仕方がありません。
まごまごすれば、夜の帳《とばり》はいよいよ迫って来て、村まで行くにさえ、差し支えそうになってきます。気を取り直して私は、星空を頼りに、その村道を辿《たど》り始めました。もう人家間近まで来てながら、二人に別れた後は、いよいよ身を切るばかりの寂寥《せきりょう》が襲ってきて、この時ほど私は心の底から淋しさを感じたことはありません。
十一
姉妹《きょうだい》の教えてくれた肥後屋という旅籠《はたご》屋は、村の中ほどにありました。私が疲れ切った足を引き摺《ず》って、この宿屋へ着いたのは、夜ももう八時近くだったでしょうか? 辺鄙《へんぴ》な片田舎の宿屋ですし、泊り客もないとみえて、静まり返っていましたが、さて奥まった部屋に通されて、やっと食事も済ませて人心地ついたからだを伸ばしている時に、朴訥《ぼくとつ》そうな四十五、六の亭主が、
「お客様、さきほどはまことにご丁寧さまに」
と、さっきやった茶代の礼に、はいって来ました。
お客様、明日はどちらの方へおいでになりますか? 山越えで雲仙《うんぜん》へでも? とか、どちらからおいでになりました? とか、どこも変らぬ宿屋の亭主らしい挨拶《あいさつ》をしていましたが、亭主のつもりでは、こんなお愛想の一つ二つも並べて、引き下がるつもりだったかも知れません。が、私が小浜《おばま》から大野木村を過ぎて、東水の尾から四里の山越えをして来たと聞くと、何ともいえぬ好奇の眼を輝かせました。
「ほう、珍しいところを通っておいででございましたな? どなたかあの辺に、お知り合いでも……?」
「そう……ちょっとあったんだけれど……今度来てみたら、そこがすっかり焼けてしまってね……驚いたよ。おまけに亡くなったんだって聞かされて……」
「ほう! 旦那《だんな》様、よう御存知で……どこでお聞きになりました?」
「なあに、やっと出逢《であ》ってね、その人の娘さんが、そういったよ」
「へえ……お嬢様が……? お嬢様にお逢いになって……?」
「君の家も、その娘さんたちに教えられて……」
ここまではいいのです。ここまでは何でもありません。が、そのお嬢様と仰《おっ》しゃるのは、おいくつぐらいで? と亭主が聞きますから、上の方は二十二、三……三、四くらいか知ら? 妹の方は二十歳《はたち》……二十一くらい……といった途端に、颯《さ》っと亭主の顔色が変りました。
「ではどうぞ……御ゆっくり……と」
と宿帳を引ったくり取って、逃げるようにアタフタと階下《した》へ降りていってしまいましたが、それから十分ともたたぬ間に、
「唯今《ただいま》はどうも、失礼をいたしまして……」
と、またはいって来たのです。小女《こおんな》でも床をとりに来たのかと思いのほか、今の亭主がいいようもない緊張した顔で、はいって来たのです。しかもミシリ、ミシリと、誰か障子の外で聞き耳を立てているらしいけはいです。
「旦那《だんな》様……実は家内に話しましたところが、家内がもう一度伺って来いと申しますんで……さきほど手前どもの家を、お教えになったとか仰《おっ》しゃいましたのは、石橋様の……お亡くなりになりました石橋弥七郎様の、お嬢様でいらっしゃいましょうか?」
私の方が呆気《あっけ》に奪《と》られるくらい、真面目《まじめ》な顔付きです。真面目というよりも、土気《つちけ》色のオドオドした顔といった方がいいのかも知れません。
「そう……お父さんはたしか、石橋弥七郎とかいわれた……」
「石橋様のお嬢様とすれば……たしか……アノ……向うのお方で……?」
「そう……混血児《あいのこ》だよ……教えてくれただけじゃない……あすこの橋のところまで……村の入り口に、石の橋が架かってるだろう? あすこまで、送って来てくれたよ」
「あの……橋のところまで送っていらして……ではつかぬことをお伺いいたしますが、旦那様は東京で、大学へいっていらっしゃいますんで」
「そう、僕は大学生だけれど?」
それがどうしたんだといわんばかりに、私は聞き返しました。途端に、亭主の顔の色といったらないのです。唇まで血の気をなくして、
「だ……だ……旦那様……そ……それは」
と震えて口がきけないのです。その瞬間、逃げ出すようにドドドドドドと、階段を駈《か》け降りて行く跫音《あしおと》が聞こえます。
「旦那様……た、た……容易《ただ》ごとではございません。そ……それは……」
真っ青《さお》になって手足ばかり震わせているのです。
「幽霊でございます……石橋様のお嬢様の、幽霊に違いございません」
「…………」
「旦那様、どちらの方でございます? 上のお嬢様でございましょうか? 下のお嬢様でいらっしゃいましょうか?」
「二人で送って来てくれたよ! ……生きてるのに、幽霊なぞと……そんなバカなことが、あるものか!」
「生きてではございません。お二人とももう……」
「何……?」
途端に私も全身から血の気が引きました。
「四カ月ばかりも前にお亡くなりでございます……」
夢中で私は起き上がりました。
「……何でも、東京の大学生とかを、えらく怨《うら》んでたという噂《うわさ》でございましたが……ああ、やっぱり噂のとおりだった……恐ろしいこんで……恐ろしいこんでございます。よっぽど、御用心なさらぬといけません……。且那様、それはもう容易《ただ》ごとではございません」
「しかし……しかし……あの木の下から曲ったところで……赤名山という山の麓《ふもと》を曲った辺に家を拵《こしら》えて住んでるといった……確かにそういった……」
「家ではございません……お嬢様のお墓がそこにございます……お墓が二つ、並んで建っております……ああ、旦那様は魅込《みこ》まれておいででございます……旦那様があの道をお通りになったんで、それでお嬢様たちが出ていらしたに違いございません……ともかく旦那様、えらいことでございます。詳しいことを知っておりますものが、スグ向うに住んでおりますから……今、その人間を呼んでまいりますから、チョックラお待ち下さいまし」
魂も身に添わぬらしく、またソソクサと亭主は出ていってしまいましたが、夢に夢見るような気持で茫然《ぼうぜん》としているうちに、私にも、自分の顔色が変ったのが、自分ながらわかるような気持でした。
なるほどそういわれてみれば、あるいは、ジーナもスパセニアも死んでいるに違いありません。さっき逢《あ》ったあの顔! あれは確かに、この世の人間の顔ではありません。久々で私に逢いながら、あの青白い顔……沈み切った力ない顔……ほほえみながら口も碌々《ろくろく》きかずに……。
しかも、その二人が怨《うら》んで死んでいったと、さっきの亭主の言葉を思うと同時に、歯の根も合わず、ガタガタと私も烈《はげ》しくからだが震え出しました。
やがて亭主と一緒に入って来たのは、四十七、八、これも同じように、田舎者まる出しの朴訥《ぼくとつ》そうな、印半纏《しるしばんてん》を着た小肥《こぶと》りのオヤジでした。
「旦那《だんな》様、この人が石屋の伊手市《いでいち》どんといいまして、あすこのお墓を刻んだ人でして……詳しいことを、よう知っとりますで……」
私が、ジーナとスパセニアの亡霊に見送られて来たということを、もう亭主が口走ってしまったものとみえて、ほかに三十二、三になる農夫|体《てい》の男が一人、田舎者の無作法さでノッソリと座敷へはいって来て、腕組みをしながらその伊手市どんという男の背後《うしろ》で、聞き耳を立てています。そして、気味が悪くてこれも一人ではいることもできないのでしょう、青い顔をした内儀
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