、東京にいることだけは、間違いない……返事の来ないこないだの電報のことを思い出して、その解けぬ謎《なぞ》を考え倦《あぐ》ねながら、私はいつまでもいつまでも薄暗《うすやみ》の中に突っ立っていました。
「ハッキリとは記憶しませんが、それは何でもジーナに逢《あ》ってから五、六日の後、四月の二十五、六日頃ではなかったかと、思います。その時そんな凄《すさ》まじい事件が、姉妹《きょうだい》の上に起ってようなぞとは夢にも私は……し……知らなかった……の……です……」
と青年の言葉が、糸のようになって消える……。
「おや! どうかなさいましたか?」
と私が覗《のぞ》き込んだ刹那《せつな》、突然青年は、さし俯《うつむ》いた。ゴホゴホと絶え入れるように咳《せき》入って、片手がまさぐるように、枕許《まくらもと》のハンカチへ行く。苦しげに口許を抑えたハンカチへ、突然べっとりと真っ赤な血が!
「ど、どなたかいられませんか? 早く、早く、来て下さい!」
私の喚《わめ》いたのと、隣室から二人の看護婦の駈《か》け込んで来たのが、同時であった。続いて真っ赤なものがまたどっと! 喀血《かっけつ》であった。大喀血であった。
「江崎さん、早くその注射器を! 大丈夫、大丈夫! スグ納まる……貴方《あなた》は氷を砕いて来て! ……じっとしてらっしゃい、じっとして……しばらく、じっとしてらっしゃい」
夢中でオロオロしてたから、もはや私はそれからのことを覚えない。物慣れた看護婦が注射をして、病人を安臥《あんが》させる。これではもう、話も何もあったものではない。あんまり話に身を入れ過ぎたのが、いけなかったのか? 長い話が、身体に障ったのか? 遠慮して階下《した》へ降りようとするところで、階段を急いで来た母夫人と、女中|頭《がしら》に出逢った。
「恐れ入りますが、しばらく応接室の方で……幾や、御案内申上げて……!」
この取り込んでいる最中に、もはや話も何も、あったものではない。喀血の後では、当分の安静も必要であろう。他日を期して私は帰路に就いたのであったが、この病人が亡くなったのは、その時訪ねて三日ばかり間を置いて、もう一度訪ねたから「都合二回の私の訪問の後、おそらく一週間か、十日目ぐらいではなかったかと思われる」と、最初に私の書いたその第一回の訪問はここまでなのである。
続いて第二回の訪問……来て欲しいと、また車をもっての迎えであったから、もう具合は直ったのか? 少し早過ぎはしないのかな? と眉《まゆ》を顰《ひそ》めながらも、約に従って第二回の訪問をする。
「若旦那様、お薬の時間でございます」
と、次の間から看護婦が薬の盆を捧げて来た。それを済ませて、仰臥《ぎょうが》しながら、病人はまたこないだの続きを話し出す。話の方によほど気が急《せ》くのであろう? どうも顔色が悪い、土気《つちけ》色をして、もうこれは生きてる人間の顔色ではない。それに息切れが眼立って酷《ひど》い。もうしばらく話をせずに、安静にしていた方がいいのではないか? と気になるが、病人の精神の安らぐ方が第一だから、余計なことはいわずに、またこないだのとおり耳を傾ける。
「こないだは、どこまで申上げましたでしょうか? ……幸い、四月からまた学校へ行くことができるようになりましたというところまで、お話したような気がします……」
もうしばらくの間話をせずに、安静にしていた方がいいのではないか? とどうも気になって仕方ないが、仕方ない、耳を傾けることにする。そこで四日前の話の続き!
「……今度は、どうやら懸念していた梅雨時も無事に通り越すことができました。木《こ》の芽《め》時《どき》といって、私のようなからだには、入梅頃から新緑へかけての気候が一番いけないのですが、どうやらその時季も無事に通り越して、待ち切っていた夏休暇も迎えることができました。
休暇に入ればもちろん、私にとっては九州が第一の問題です。が、去年も患い、今年もまた患ったこのからだでは、どんな理由をつけたからとて日帰りならともかく、一週間十日に亘《わた》る単独の旅行なぞに、父母が出してくれようはずがありません。何とか親をゴマカス旨《うま》い手段はないかと、伊東の別荘へ行けと勧める母の言葉を渋って、無理に東京で考えこんでいたのですが、偶然にも、父が休暇を取って、道後《どうご》の温泉へ行くことになったのです。道後ならお前のからだにもいいしということになって、二週間ばかりの予定で、父の供をして行くことになりました。どんなに私は、それを喜んだかわからないのです。
父ならば母ほど喧《やかま》しいこともいいません。母はまるで十二、三の子供くらいにしか私を扱いませんが、父は、もう少しは私に理解も持ってくれれば、一人前の大学生としても扱ってくれます。母と離れて暮す二週間……この間に何とか父に頼んでみようと思いました。そして、道後へ着いてからも、毎日毎日退屈な日を、父の謡《うたい》を聞かされたり、碁《ご》の相手をいいつかったりして暮しながら、何と父に持ちかけようか? とその機会《おり》ばっかり窺《うかが》っていました。
道後へ来てから、五、六日もたった頃でしょうか?
「どうだ退屈したか?」
「退屈はかまいませんけれど……お父様! 僕は少しお父様に、相談があるんです。……友達のところへ、ここへ来てるといってやったら、ここまで来てるんなら、寄ってくれたっていいじゃないか? といって来たんです。僕、いって来てもいいか知ら?」
「いって来たらいいじゃないか!」
と、父は好きな唐詩撰《とうしせん》を読んで、殊《こと》に機嫌がいいのです。
「だっていけばスグには帰れませんから、三日ぐらいかかりますよ、かまわないか知ら?」
「三日?」
と初めてびっくりして本から眼を離しました。
「なんだ、ここじゃないのか?」
「山口県の宇部《うべ》というところなんです。一緒に宇田中の温泉へ行こうと、楽しみにして来てるんです。特別親しくしてるもんですから……」
「宇部とは遠いのう! お父さんひとりスッポカシテ、そんなところへ行かんだっていいじゃないか! お母さんだって、お前ひとりやれば心配されるだろうし……」
「もう、僕だって子供じゃなし……お母様は、あんまりいつまでも、子供扱いされるんで、困るんです! お父様は、わかって下さるけれど……」
「お前が大切《だいじ》だから、アレもつい、度を過ごすのだろう。ま、お父さんは、もう一人前の人間と思うとるから、あまりこまかいこともいわんようにしとる」
行ってよろしいともいわず、行ってはならぬともいわず、有耶無耶《うやむや》のうちに到頭無理やりに父の承諾を得た時は、どんなに躍り上がったか知れません。まだ煮え切らずに、何も夜になるところを眼がけて行かなくともいいじゃないか! 明日《あした》の朝行けばいいじゃないか! と止める袖《そで》をふり払って私は、父の気の変らぬうちに飛び出してしまいましたが、考えてみればあれからちょうど二年と三カ月……、ジーナもスパセニアも、どんなに待って待って待ち抜いていたかと思えば、逢《あ》わぬ先からもう心は、遠く南九州の空へ飛んでいました。
長崎急行に乗り換えて、宇部も宇田中もクソもあったものではありません。それからは一直線に長崎へ! この前は、島原から雲仙《うんぜん》へ出て、山道を歩いて東水の尾へ出ましたが、これは偶然のまぐれ当りです。今度はもう道を知っていますから、長崎からまっすぐ小浜《おばま》へ! そして一刻も早く二人に逢いたい一心に、気もそぞろにタクシーを急がせて、大野木村を経て、あの二年三カ月前に、三人で馬を並べて下った四里の道を、今度は逆に東水の尾へ登っていったのです。
この前のとおり、大野木を出端《ではず》れるともう、人っ子一人の姿も眼に入りません。登るに従ってやがて車の左側に、例の混凝土《コンクリート》の溝渠《インクライン》が蜿蜒《えんえん》と列《つら》なっているのが見えます。山の陰に隠れたり、また姿を現したり、さらに半道ばかりもいったところで、道は一町ばかりこの溝渠《インクライン》と並行して走ります。そして一段低く、溝渠《インクライン》の中は、車窓から見下ろせます。
おや! と私は眼を瞠《みは》りました。この前三人で水遊びをしたのは、六月の始め頃、飛沫《しぶき》を浴びるとまだ鳥肌だつ頃だったのです。今は七月も過ぎて八月の五日……茹《うだ》るような暑さです。溝渠《インクライン》はさぞ満々たる水を湛《たた》えて走っていると思いのほか、なんと一滴の水もなく、カラカラに乾き切って混凝土《コンクリート》の底は、灰色の地肌《じはだ》を見せているのです。しかも底には処々黒い土がこびりついて、そこには雑草が生《お》い茂っているのです。ということは、ここ半年にも一年にも、水なぞは一滴も通ったことがないという証拠です。どうしたんだろう? と私は名状し難い不思議な気持に打たれました。
溝渠《インクライン》はまた道から離れて、やがて山の向うに入ってしまいました。そして、車はいよいよ雑草の茂るに任せた、高原地帯へ踏み入って来ました。右手|遥《はる》かに海が咆《ほ》え、やがて断崖《だんがい》の上に張りめぐらした鉄鎖《てっさ》らしいものが眼に入ってきます。
「そうだ! そこを左の方へ曲って……もうちょっと行ったところで……そこだそこだ! そこを右手へ曲って、もう一度左へ行って……」
「この辺にゃ、誰も住んじゃいねえんですかい? ……酷《ひど》く荒れたところですな……こんなところは来たこともないが、旦那《だんな》、こりゃ何方《どなた》かの、地所内《じしょうち》ですかい?」
その道もない草の中を、あっちへ行き、こっちへ曲り、二年昔の朧《おぼろ》な記憶を呼び起してやっとのことで、例の、向うに赤松の丘を眺《なが》める、ホテルの建築場跡の広場へ辿《たど》り着くことができました。鉄梁《ビーム》や鉄筋の残骸《ざんがい》があり、鉄柱が峙《そばだ》ち以前と何の変りもありません。ただ相変らず人気《ひとけ》のない淋《さび》しさのみが、沈々として身に迫ってくるばかりです。
「ほう! こんなところになア……こういうものがなア……へえ!」
と車を降りて来て、運転手も感に堪えて、穴の端に佇《たたず》んで工事場跡を眺めています。
十
ここで車を返して、私は彼女たちの住居《すまい》の方へ足を向けました。もう、そう遠い道ではありません。期していたこととはいいながら、寂寥《せきりょう》とも寂莫《せきばく》とも、何ともかともいいようのない孤独さです。ただ夏草だけが、人の胸のあたりまでも茂って、松の梢《こずえ》を鳴らしてゆく風の音が、魂に沁《し》み入るような気持です。
が、目前に迫った彼女たちとの再会に胸を躍らせて、別段私は淋《さび》しいとも思いませんでした。淋しいどころか! 今日来るとも予期していない彼女たちの背後《うしろ》へ回って、ワッと驚かせてやる時のことを考えると、喜悦で胸もハチ切れんばかりの思いです。優しいジーナは、あの艶《あで》やかな眼に涙ぐんで、凜々《りり》しいスパセニアは、涼しい瞳に一杯涙を溜めて、さぞびっくりして喜んでくれるでしょう。
鬱蒼《うっそう》とした山の陰が、いよいよ眼の前に近づいて、いつか初めてスパセニアに連れられた、あの白砂利の道に出て来ました。左手へ曲ったそこに、いよいよ御影石《みかげいし》の舗道《ほどう》が見えて……、もう歩いているのももどかしく、私は走り出しました。
見覚えのある太い門柱が、陽《ひ》を浴びて立っているのが眼に入ってきました。叫びたいのを我慢して、一気に駈《か》け上って行った途端……呀《あ》っ! と叫んで、私はへなへなと崩おれてしまいました。見よ、見よ! あの瀟洒《しょうしゃ》な家が全部燃え落ちてしまって! ただ二本の門柱と鉄柵《てつさく》のみが、悄然《しょんぼり》と立っているばかり……そして焼け跡には、混凝土《コンクリート》の土台だけが残っているばかり! 眼に入る限り
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