、太腿《ふともも》も露《あらわ》に、真っ白なからだに二人とも水着を着けて、その水着がズップリ濡《ぬ》れてからだ中キラキラ陽《ひ》に輝いて、すらりとしながら引き締まって均整の執《と》れた手肢《てあし》……恰好《かっこう》のいい胸の隆《たか》まり! 私に見せた笑い顔がまだ眼前に散らついて、私は喘《あえ》いで胸で息をしたいような気になりました。
たださえ暑い陽が一層|眩《めまぐる》しく、じっとりと手足が汗ばんできて、痛いほど全身が擽《こそぐ》り回されるような、気がしてくるのです。しかも茫《ぼう》っとしてものの考えられぬ頭で、ただばかのように私は結婚結婚ということばかり、思い詰めていたのです。スパセニアの肢体が眼の前で跳躍して、ドブンと水煙立てて……ジーナが婉麗《えんれい》な身体をくねらせ、手を上げて眼の前を過ぎてゆく!
しかも考えながら、一体どっちと結婚したらいいのか! もう私には、ジーナもスパセニアも、区別がつかなくなったのです。二人とも欲しい、いくら欲ばっていると考えてみても、堪《たま》らなく二人とも欲しいのだから、仕方がありません。艶麗《あでやか》は艶麗でいいし、凜々《りり》しいのは凜々しいので、堪らない。もし二人を持つことが許されないのなら、その一人でもいいから、早く欲しい! 早く、からだをクッつけたい! ……とは思いますけれど、もしどっちかを得たら残る一人にも、さぞ私は、心が惹《ひ》かれるでしょう。ああこの二人とも、持つことができたらなア! と、私は肚《はら》の底から呻《うめ》かずにはいられませんでした。
私が道を降り切らぬうちに、二人とも曲り角で混凝土《コンクリート》の側壁へ這《は》い上がったのでしょう、やがて私にはわからぬ母国話で、嬌声《きょうせい》を挙げながら、縺《もつ》れ合って小径《こみち》を上って来ました。
「ねえ、面白かったでしょう? ……とても、すごいでしょう? ……でも、まだ少し、冷たいわねえ! 夏おいでになった時は、御一緒に貴方《あなた》も、しましょうね。あら、イヤーよ、ジーナ! そんなに水を跳《は》ね返しちゃ!」
私は二人と、口をきく気にもなれません。ただ、からだ中をのたうっている息苦しさ悩ましさに、胸を喘がせ切っていたのです。二人とも、軽そうな水浸しの運動靴で、ピチャピチャと土を濡《ぬ》らして歩いています。悩ましい肢体《したい》を惜しげもなく陽《ひ》に晒《さら》して、海水帽を除《と》ってキラキラと黄金《こがね》色の髪を振り乱しながら……その二人に囲まれて、ただ私は黙々として上気し切っていたというよりほか、いう言葉がありません。
今でも私は、そう思っているのです。もしスパセニアがいなくて、ジーナとただ二人だったならば、おそらく私は前後の見境《みさかい》もなく、ジーナをネジ伏せてその場に思いを遂げてしまったでしょう。同じこと、もしジーナがいなくてスパセニアだけだったとしても、私にはスパセニアをあのままのからだにはしておけなかったに違いありません。
水へ入るのは、まだいくらか肌寒く、歩くには暑いさんさんたる太陽の直射を浴びながらただもう夢中で、私は肉の疼《うず》きだけをモテアマシ切っていたのです。そしてやっとのことで、湖の水門のあたりまで辿《たど》り着きましたが、まったく私にはもう、窈窕《ようちょう》も凜々しさもお侠《きゃん》も淑《しと》やかさも何もかもが、一切合切区別つかなくなってしまいました。
ともかく二人|揃《そろ》っているばかりに、辛じて私は理性を奮い起して、不躾《ぶしつけ》な真似《まね》もせずどうにかこうにか最後の一日も、楽しく送ることができましたが、さてその翌《あく》る日|発《た》つ時には、父親は門口まで、そしてジーナとスパセニアは四里離れた大野木村のバスの乗り場まで、私を送って来てくれました。私にはイルシューという赤毛の一番|温和《おとな》しそうな馬を、スパセニアは例の白馬を、そしてジーナは栗毛のプルーストの鼻面《はなづら》を並べて……話といって何にもありません。来月夏の休みになったら、きっとスグいらしてねえ、とただそれだけのことを思い出したように、何度も何度もくり返しているだけです。随分長いのねえ、まだ今日から三十何日もあるわ! わたくし今日から一枚一枚、カレンダーに記《つ》けとくわ! とジーナが淋《さび》しそうにいうのです。いよいよ大野木の乗合《バス》の乗り場に着いてから小浜まで三里、麦畑と切り断ったような断崖《だんがい》の間を、乗合《バス》は走っているのです。二人が心を込めて作ってくれた弁当を持って乗り込むと、停留所の前に馬を停めて、ジーナは私の乗って来たイルシューの手綱を控えて手をふっています。側にはこの十二、三日の間に、すっかり馴染《なじみ》になったペリッチが畏《かしこ》まって尾を振っています。そして、スパセニアの姿が見えぬと思ったら、馬術の名手といわれる彼女は今馬を煽《あお》って、動き出した乗合《バス》の後からまっしぐらに、追って来るところです。
乗合《バス》が速さを増すと、同時にスパセニアの馬も、砂塵《さじん》を蹴《け》たてて追って来ます。私の車と摺《す》れ摺《す》れに駈《か》けながら、片手を伸ばして車の窓|硝子《ガラス》を叩《たた》いているのです。やっと窓をあけると投げこんだのは、いつも胸につけている大きな銀の|襟飾り《ブローチ》です。髪をなびかせながら大声に何か、叫んでるようでしたがそれはもう、聞こえません。車は急に、速力《スピード》を増してきました。さすがにスパセニアの姿も、見る見る遠ざかって、それでもまだ必死に馬を飛ばせながら、鞭《むち》を持った手を狂気のようにふっています。それに答えているうちに、車はカーブを切って石礫《いしころ》だらけの山角《やまかど》を曲って、到頭姿は見えなくなってしまいました。
私は|襟飾り《ブローチ》を拾い上げて、やっと座席に座り直しましたが、これが二人との別れだったのです。眼を閉じると今でも手をふって、別れを惜しんでいたジーナの姿が、ありありとうかんできます。馬上に身を伏せて、必死に手綱を絞っているスパセニアの姿も、ありありとうかんでくるのです。しかもその時私は、この別れがこんな凄《すさ》まじい結果を齎《もたら》そうなどとは、夢にも思ってはいませんでした……。
八
東京へ帰ってからも、どんなにこの姉妹《きょうだい》の俤《おもかげ》が、眼の前に躍って離れなかったか知れません。うかうかと、大分遊び暮してしまいましたから、帰って来れば、スグ学校へ出なければなりませんし、友達からノートを借りて遅れていた講義の整理もしなければならず、一週間十日は、眼の回るような忙しさでした。
が、その忙しい間も、あるいは従妹《いとこ》たちが遊びに来て家中で食事している時も、一緒に笑いもすれば、また従妹が何か聞けば、受け答えもしていましたが、心の中では寸時も忘れずジーナとスパセニアの俤を偲《しの》んでいたのです。
父も母もハッキリと、口へ出したわけではありませんから、あるいはこれは私だけの思い過ごしかも知れませんけれど、父母は行く行くはこの従妹を、私と結婚させるつもりでいたのではないかと思われました。どうもそういう様子が仄見《ほのみ》えるのです。
そして私も、別段この従妹が嫌いというのではありません。今までは綺麗《きれい》だなと思ってもいましたが、それは、九州へ出かけるまでの話であって、あの二人に逢《あ》った後は、まったく事情が異なってきたのです。
この従妹なんぞ、あの二人に較《くら》べれば月と鼈《すっぽん》ほどの違いです。私には、上手に女の比較なぞはできませんが、姉のジーナは靨《えくぼ》を刻んでパッと眼が醒《さ》めるように艶麗《えんれい》ですし、スパセニアは大空の星でも眺《なが》めるように、近寄り難い気品を漂わせて、ほんとうの美人というのは、こういうのを指すのだろうかという気がします。二人とも卵を剥《む》いたようなすべすべの皮膚をして、どんな点を較べてみても、こんな従妹なんぞ問題ではないのです。そして変なことをいうようですが、ジーナの前へ出ても、スパセニアと話していても、私は堪え難い情欲に悩まされました。しかも悩まされながらその情欲が、また何ともいおうようなく生き甲斐《がい》というか、充実した人生というようなものを、私の胸一杯に感じさせていたのです。が、こんな従妹となぞ、小半日鼻突き合わせていても、そうしたものの片鱗《へんりん》さえも感じはしないのです。私はまったくもう、あの二人に捉《とら》われ切っていました。
ともかく夏休みになったら、夏休みになったらと、半月後に来る夏休暇を、どのくらい待ち焦がれたか知れませんでしたが、困ったことに休暇に入る四、五日前から、身体の具合が思わしくなくて、到頭寝込んでしまいました。
以前に患った肋膜《ろくまく》の再発だと、医者はいうのですが、ただ再発だけなら、親もそれほどは驚かなかったかも知れません。が、左肺がかなり進行しているから、絶対安静にしろ! といわれて、レントゲンだ、ほら血沈だと、母なぞは今にも死ぬような心配をしているのです。
暑い間は、伊東の別荘で寝て暮すことにして、行くのにも自動車を徐行させて、牛の這《は》うようにノロノロと……車中で寝ていられるように、扇風機を取り付けたり、氷柱を入れさせたり、引っ繰り返るような騒ぎを演じているのです。その親心を、有難いと思わぬではありませんが、こんな病気くらい、一思いに九州へ飛んでいって、ジーナやスパセニアと馬の二、三回も走らせれば、スグ癒《なお》ってしまうのに! と、その時も儘《まま》ならぬひとり息子の身の上を、どんなに小五月蠅《こうるさ》く感じたか知れませんでした。
到頭その夏は、秋風が立って十月|赤蜻蛉《あかとんぼ》の飛び交う頃まで、体温計と首っ引きで、伊東で寝て暮してしまいました。気候がよくなってから、やっと東京へ戻って来ましたが、医者がヤカマシクいうものですから、その翌年の四月頃までも、寝ていましたでしょうか?
今に起きられるようになったら、今年の夏こそどんなことでもして、二人に逢いに行こうと寝ながらもそのことばっかり考えて暮していましたが、せっかくよくなったと喜んだ甲斐《かい》もなく、暑くなりかけてきた二月《ふたつき》後の六月半ば頃から、またからだの違和を感じて、父と母の厳命で、その年の夏から秋へかけては、到頭七里ヶ浜の湘南《しょうなん》サナトリウムで、懊悩《おうのう》しながら療養の日を送ってしまいました。
来月休暇になったらスグ訪ねると約束して、二人に見送られて大野木から発《た》って来たのが、去年の六月の十四日……休みになっても到頭行くことができず、また今年の夏も行くことができず、さぞ二人が待ち切っているだろうと思うと、寝ていても気が気ではないのです。
永い秋の日を、一日一杯|寝椅子《ねいす》で安臥《あんが》している病院生活の間中、寝ても醒《さ》めてもただうつらうつらと、日となく夜となく頭の中で私にほほえみかけてくるものは、ただジーナとスパセニアの二人だけだったと申上げたら、その時の私の焦慮と焦心が察していただけるかも知れません。そして、頭を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りたいほど、ただ自分の意気地のないからだが……、いいえ、からだというよりも、二十三にもなる大《だい》の男の身でありながら、自分の思うに任せぬひとり息子の身の上を、どれほど情けなく思ったか知れません。
そんなに気を揉《も》んでいたのなら、行くことができなければ、せめて、手紙でもどんどん出してたらいいじゃないかと、先生はお思いになるかも知れませんけれど、相手があの二人の場合には、手紙ということがまったく私には、不可能に近いのです。
というのは、日本へ来ている外人たちと同じくジーナでもスパセニアでも、聞くこと話すことは、日本人と寸分変りない流暢《りゅうちょう》さですが、字だけは全然読むことも書くこともで
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