、取って来てくれますから三日遅れの新聞もあれば雑誌もありますが、そんな新聞雑誌に眼を通すでもなければ、ラジオや映画があるでもなく、近代感覚なぞというものは凡《およ》そ薬にしたくもない、こんな無刺戟《むしげき》な単調な山の中で、何が面白くてそう長く遊んでいられるのか? と、先生、貴方《あなた》はお考えになるかも知れませんが、それがそうではないのです。
ここにいる限り、その日その日が夢のように楽しくて、まるで薔薇《ばら》の花弁《はなびら》の中ででも眠っているような気がするのです。西洋の小説に、薔薇の花弁に包まれているような気がするとよく書いてありますがまったくそういう気がして、二人と一緒にいる限り毎日毎日がこの上もなく楽しいのです。しかもそれでいて、別段私はスパセニアの隙《すき》を見て、ジーナと二人切りになる機会ばかり、窺《うかが》っていたというのでもありません。打ち明けていえば初めはいくらか、それも私の心の中にありましたが、二人と親しんでくるに従って一体私という人間は、どっちがほんとうに好きなのだか、自分にもほんとうの自分の気持が、わからなくなってきたのです。なるほどあの時はスパセニア
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