な》玉木うめ(十九歳)を連れて、長崎市まで料理材料の買い出しに出かけて行ったが、夕方五時七分着の列車で大村駅へ帰着、四十分余を費やして人力車で自宅へ帰った時にはすでに、棚田判事も井沢判事も見当らず、恐らく両氏は、夫人の留守中に棚田家の伝刀を携えて、ひそかに臼島へ向ったものではないかと、推定されている。
 それ以来、夫人は必死で知人や心当りを探索していたものの、井沢判事は東京以来、棚田判事と親密な同僚関係にあり、平素口論一つしたこともなく、何故、兇器《きょうき》を振るって死に至るまで決闘を続けなければならなかったのか、思い当るところがさらにないと、両氏を知る交遊関係は異口同音に、当惑し切っている。
 かねて夫人は、美貌《びぼう》をもって鳴っているが、貞操のほまれ高く、井沢判事、また高潔で、夫人をめぐる痴情の疑いなぞは、もちろん見当らぬ。関係当局でも近来の怪事件として、急遽《きゅうきょ》凝議、不審の眉《まゆ》をひそめている」
 これが、去月《きょげつ》二十四日に現れた、この事件に対する全国各新聞の第一報なのですが、内容といい奇怪さといい、もちろん読者諸君もすでに御記憶のことであろうと思われます。
 新聞記事を直接引用したついでに、もう少し、伝えられた当時の全貌を、書き添えてみるならば、二十六日にも各紙はさらに「謎《なぞ》の決闘事件詳報」として、事件の詳報に努めています。
「棚田、井沢両判事の不思議なる決闘事件を取り調べている長崎地検大村支部でも、調査の進行につれて、事件の核心と目すべきものがなく、捜査も目下、五里霧中を彷徨しているようである。十八日家出の当日まで、両判事とも、極めて和気|藹々《あいあい》として、殊《こと》に棚田判事は親友井沢判事の来訪を喜んで、病後にもかかわらず、珍しく酒盃を手にして、親しげに語り合い、井沢判事の来訪以来、同家に滞留三日間、決闘の原因と目すべきものの見当らぬのには、夫人を始め係官一同、困惑し切っている。
 因《ちな》みに、棚田判事は、趣味の方面においては特異なる作曲をもって聞こえ、都内有数の、刑事訴訟法の権威である。温厚なる井沢判事は、三年来、東京高裁民事部長の職にある人、棚田判事は今回の司法部内の異動に伴うて、法務省矯正局長の後任に擬せられていた。
 いずれにせよ、謎《なぞ》の事件として、当局の深い疑惑と絶望の淵《ふち》に投げ込んでいる」
 と、事件の真相を知るの難きを、嘆じているのですが、越えてさらに二日、年の瀬を慌ただしさを加えた十二月二十八日の追報記事に至っては、読者の好奇心に訴えつつも、さらでだに迎春の準備に忙しい人々を、いよいよ茫然《ぼうぜん》底なき沼にさまよわしめるの観があります。
「東京高裁木俣長官談。棚田判事の事件は、検察当局でも取調べを急いでいるであろうが、今もって原因の推測が皆目つかぬには、困っている。棚田判事は、宿痾《しゅくあ》の療養のため、一昨年十一月休職、故郷の大村市に引き籠《こも》って、静養に努めていた。来月の十一日で、休職満期となるが、健康状態も至極良好なので、復職することとなり、その打合せかたがた、見舞を兼ねて特に今度、井沢民事部長に行ってもらった次第だ。
 両判事とも、資性《しせい》温厚、学者肌の人で、確執や怨恨《えんこん》関係なぞの、あるべきはずがない。部内でも、平素最も親密な同僚関係だけに、この事件だけは、何が何やらサッパリわからず、まったく夢のような気持だ。今電話があったところだが、中田最高裁長官も驚いていられる」
 もう一つは、臼島へ渡る当日、判事たちが乗った舟の船頭の話が、見つかったらしく「一時的の精神錯乱か?」という冒頭の下に、この船頭の話が載っているのです。
「十八日の夕方、わしが網を繕《つくろ》っているところへ、お二人でおいでになって、確かにわしが、乗せてお渡ししたに違いありません。臼島まで、往き帰り六十二円のお約束でした。わしが漕《こ》いで、お二人とも別段、舟の中では不愉快らしい様子はちっともなく、煙草《たばこ》を吸ったり、笑ったりしていられました。
 島へ着いたのは、五時半ぐらいだったんでしょう。今夜はこのまま帰って、明日の朝八時頃、迎えに来てくれということで、旦那《だんな》様大丈夫ですか? と申しましたところ、島のてっぺんには、弁天様のお堂があるし、大の男が二人、こういうものを持っていれば、何の怖いこともないじゃないかと、笑っておいでになりました。島へ渡るお客さんの中には、月のいい晩なぞ、一晩お泊りになるお方もありますので、わしも別段不思議とも思わず、その晩はそのまま帰って、翌《あく》る日の朝八時頃、お迎えに行きました。が、そこらに姿が見当らず、てっぺんの弁天様の祠《ほこら》でも、見当らねえので、わしの迎えに行くのが遅くなったので、ほかの舟で
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