ラウスだったか、バタルチェウスカの乙女の祈りだったかを弾き出されました。もう今の三浦嚢の曲なぞには、一言の感想をはさまれるでもなく、ただこんな厭《いま》わしい曲の記憶なぞは、一刻も早く拭《ぬぐ》い去ってしまいたいと思っていられるかのように、新しい曲に老いの情熱を籠《こ》めていられるばかりでした。そして先生の瞳の色にも身体のこなしにも、さっきまでの鬱陶《うっとう》しい風はもう微塵《みじん》もなく、生き生きとして指を動かしていることを、楽しんでいられるように思われます。
初めて煙草《たばこ》に火をつけるものもあれば、耳語を交わすものもあり、何かしら吻《ほ》っとした空気が座には感じられました。が、
「棚田氏は今どこにいるんですか?」
と側《そば》の人に聞いてみたら、
「……あの人は今確か東京高裁に勤めてられるはずだと思いましたがね」
と言う返事だったのです。なぜ教授がこれは大変な曲だと驚かれたのか、そして、この作者はもう長く生きないでしょう、と言われたのはどういう意味だったのか? その後間もなく教授も日本へ帰って、相変らず上野で教鞭《きょうべん》を執《と》っていられましたが、職業も違い、社会的立場も異なって、その後|逢《あ》ったことがありませんから、頓《とん》とその意味はわからないのです。そこへ持って来て、昨年十二月二十四日の新聞記事だったのですが、それをいうためにはまずその記事の全文を掲げておいた方がいいのではないか、と考えています。
五 謎の決闘
旧臘《きゅうろう》二十四日、全国各新聞は一斉に、社会面二段三段を抜いて――中には、四段五段を割いたものもあって、
「凄惨《せいさん》! 東京高裁棚田判事、同僚井沢判事と決闘す。長崎県大村市、孤島の大惨事」
という冒頭の下に、前代未聞の不思議な事件を、報道しているのです。
「大村市から一眸《いちぼう》のうちに見晴らせる、風光明媚《ふうこうめいび》な湾内に、臼島《うすじま》という周囲五キロに満たぬ、無人の小島がある。全島足の踏み込み場もないまでに、背丈くらいの松が密生して、擂鉢《すりばち》を伏せたような恰好《かっこう》のいい小島は、市人から親しまれ、絶好のピクニック場と、目されている。
底が透かし見られるくらい、澄み渡った波を、小舟で乗り切って、およそ、十五、六分くらいの距離であろうか。本月二十二日の日曜、ここへ遊びに行った、市内古町住宅九十三号、大村入国者収容所職員、中込佐渡雄君(二十六歳)、岩瀬忠市君(二十四歳)、秋月敏子嬢(二十一歳)、詠村道子嬢(二十三歳)等の吏員が、同島南海岸を逍遥《しょうよう》中、海浜より七、八メートル離れた這松《はいまつ》の根元に、四十五、六歳ぐらいの鼠《ねず》背広、格子縞《こうしじま》の外套《オーバアー》の紳士が紅《くれない》に染んで倒れ、さらに北方十二メートルのところに、同様上品な服装の痩《や》せ形の紳士が、同じく血に塗《まみ》れて絶命しているのを発見、大騒ぎとなった。
急報を受けた、国警大村警察の調べによれば、鼠背広の紳士は、一年前より肺を病んで休職中の、東京高等裁判所判事、三浦襄のペンネームをもって作曲家としても有名なる、棚田晃一郎氏(四十四歳)、もう一人の紳士は、病気見舞のため四、五日に西下、同判事宅に逗留《とうりゅう》中の、同じく東京高等裁判所判事井沢孝雄氏(四十六歳)と判明、前後の事情より推して、二、三日前両氏は、ひそかに人なき孤島に上陸、兇器《きょうき》をもって互いに斬《き》り結び、数個所の重症を負うて、絶命したものであることが、明らかになった。
警察医吉田弥三郎氏の鑑定によれば、決闘は本月十八日より、二十一日払暁の間に、行われたものと見られ、無人の孤島のため知る人もなく、今日まで四日間、放棄せられしものと判明、屍体《したい》は惨鼻を極めている。
棚田判事の傍らに落ちていた刀は、刃渡り一尺八寸六分、無銘ではあるが、山城国《やましろのくに》京来派の名工、来国光《らいくにみつ》の作と伝えられ、同じく血を浴びて、井沢判事の屍体の下に落ちていた刀も、備前一文字吉房《びぜんいちもんじよしふさ》の作、一尺八寸六分の業物《わざもの》であり、両氏の無数の刀傷、またこの二つの刀身に血ぬられた、人間の膏《あぶら》、血痕《けっこん》等によって判断するに、両氏はいずれもこの名刀を振るって、凄惨にも死に至るまで決闘を続けたものと考えられている。
しかも不思議なことには、市内上小路三百二十番戸、棚田氏宅から夫人光子(三十九歳)を召喚、綿密なる調査を続けた結果、両刀とも棚田家に伝わる、祖先伝来の名刀に間違いないことが、判明した。
本月十八日、夫人は遥々《はるばる》東京より来訪せる夫君の親友井沢判事|饗応《きょうおう》のため、小女《こおん
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