めるであろうことは、もはや誰の眼にも明らかなところでしょうが、教授は終戦後の変り果てた、祖国[#「祖国」は底本では「祖母」]独逸を久しぶりに訪問していられるのでした。が、私の言いたいのは、その晩老教授に紹介されて、判検事一同とともに教授と食卓を囲んだ一時間の後、さて老教授のピアノ弾奏に耳を傾けていた時のことだったのです。ホテルのホールといっても、そう広いものではありません。五、六十畳そこそこくらいのものだったでしょうか? あちらの棕櫚《しゅろ》の陰に、こちらの椰子《やし》やゴムの熱帯樹の側《そば》に、敷き詰められた猩々緋《しょうじょうひ》の絨毯《じゅうたん》の上に、足を組んだり煙草《たばこ》を吹かしたり、ヴァインの盃を傾けながら、連中は教授のピアノを聞いているのでしたが、かねての約束なのでしょう、サンサーンスや、バッハの小曲を弾き終えたのち、教授はピアノの上に載せられた譜本を取り上げました。
「今度ハコレヲ聞キタイノデスカ? ソレトモコノ方ヲ?」
 と別の譜本を取り上げられました。
「先生済みませんが、その三浦という人の曲を聞かせていただけませんでしょうか? ここにいられる医師の前島さんが、三浦さんの子供の時からのお友達なのですが、まだ一度も三浦さんの曲を聞いたことがないと言われるもんですから」
 と官房総務部長が私を指して言うのです。
「よろしい《グート》」
 と先生が独逸《ドイツ》語で答えられました。
「弾イテミマショウ……ワガヨウジノオモイデ……ナルホド《ヴィルクリッヒ》……我ガ幼時ノ思イ出トイウ題デスネ……作者ジョー・ミウラ」
 と声に出して読み上げながら、先生はピアノの前にかけられました。ポンポンと涼しい音が、先生の枯れた指の先から迸《ほとばし》り出てくるのです。しばらくそうして掻《か》き鳴らしているうちに、曲意が飲み込めたのでしょう、改めて先生は初めから緩やかなテンポで、弾き始められました。
 が、私の言いたいのは、その瞬間だったのです。調子を取るように、一弾き一弾きペダルに力を込めて前後に身体を揺すっていられた先生は、やがて楽譜一枚くらいも弾奏し終えたかと思う頃合に、
「ヤッファ・ツォーイ!」
 と、……私はその発音を、何と紙の上に現したらいいかを知りません。これは独逸語でもなければ、英語、仏蘭西《フランス》語でもないのです。しかし独逸人に限らず、亜米利加《アメリカ》人でも、仏蘭西人、和蘭《オランダ》人……西洋人のことごとくが、ほとほと当惑した時に、顔中をしかめて投げ出すような調子で、呟《つぶや》く苦笑の言葉だったのです。今も先生が突然世界共通のこの苦笑を洩《も》らして、起《た》ち上がられると、譜本を鷲掴《わしづか》みにしながら、身体を揺すぶって、顔中をしかめていられるのです。
「コレハ大変ナ曲デス……コノ作者ハモノニ憑《つ》カレテイマス。恐ロシイ曲デス……ワタクシ、コンナ曲ヲ弾イタコトガナイ……土井サン、コノ作者ハドウイウ人デスカ?」
「本名は棚田といって……棚田晃一郎という判事です。現職の……」
「オウ、判事! 現職ノ……! 判事サンナラワタクシヲ縛《しば》ルカモ知レマセン。ワタクシカマイマセン……恐ロシイ曲デス。……コノ人憑カレテイマス……人間ノ作ッタ曲デナイ……コノ人モウ長クハ生キナイデショウ……」
 そして私の方へ柔和な老眼をじいっと向けられました。
「アナタ聞キタイ? コノ曲ヲ?」
「先生が御迷惑でなかったら……」
「カマイマセン、アナタガ聞キタケレバ……よろしい《シェーン》! 弾キマショウ、恐ロシイ曲デス」
 そして先生は再びピアノに向われました。
 私たちは前にも増して、一心に耳を澄ませましたが、初めに轟々《ごうごう》と北風を甍《いらか》を吹き、森の梢《こずえ》を揺すっているような伴奏が聞こえてきました。その騒音に入り交じって、時々人間の呶号《どごう》が響き渡ってくるのです。と、やがてどこからともなく澄み切った尺八の音が、哀韻《あいいん》切々と耳を打ってきました。
 しかも我々の耳をそばだたしめたのは、それから五分か、十分くらいも曲が進んだ頃、またもや嵐のような喚声と叫喚の中に、柴《しば》にでも火をつけたように、パチパチと何か燃え上がるような音がしました。そしてその後でぼうと烈風のような凄《すさ》まじさを伝えてきたのです。それが已《や》むとひっそりと静まった中に、バサッ! と物の崩れ落ちるような音がして、後はただ静かな伴奏の中に梟《ふくろう》か何かの不気味な啼《な》き声が聞こえながら、そのまま、自然自然と曲は終りを告げてしまいました。
 何ともいえぬ後味でした。しかも曲が終っても、誰も一言も口を開くものはありません。みんなじっと黙りこくっているのです。ただその中に先生だけが譜本を差し替えて、シュト
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