遠の仲を取り持つはずもなく、また二年三年は夢のように過ぎ去ってしまいました。その間に私の父も母も相次いで世を去って、今では棚田判事との間もまた昔日のごとくに疎くなり切っていたことでしたが、さてその頃に私は一年ばかりの予定で、亜米利加《アメリカ》へ行くことになったのです。この年をして今更留学|面《づら》もないことですが、若い時父母を抱えていましたので、到頭大学の研究室にも残ることができなかったため、五十の手習いのようなものでしたが、留守を医員たちに任せて、新しい病院の施設を視察に行くことになったのです。
 終戦後の二十四年から翌年の三月までをボルチモアのジョンズ・ホプキンスの大学病院で送って、帰りは欧州の医療施設の見学かたがた西|独逸《ドイツ》、仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリー》等を回ることにしましたが、私の言いたいのは西独逸のボンに滞在中のことだったのです。
 ホテルが同じでふと知り合ったのは、私と反対に仏蘭西、独逸等の欧州を回ってから亜米利加の司法制度の見学に行く、土井という最高検の検事や、法務省の官房総務部長の検事等々、判検事の一団だったのです。
「ほう、棚田判事とお友達でしたか? 安井君! こちらは小さい時分に棚田判事とお友達でいらしたそうだ」
「ほほう、それはお珍しい! 私は研修所に勤めているもので」
 と紹介された判事も検事も、ことごとく私が棚田判事と友達だったということを珍しがって、頻《しき》りに判事のうわさに余念もないのです。が、昔は友達だったかも知れませんが、今の私はもちろん判事については、何ら知るところもないのです。かえってこの人々に教えられて、色々なことを知りましたが、子供の頃は痩《や》せて弱そうな子であった判事が、今では身体の丈夫な、しかし、非常に寡黙《かもく》な、むしろ陰鬱《いんうつ》に近い性格の人であるということなぞもその一つでした。ああ真面目《まじめ》過ぎてもどうでしょうかねえ? 学者、教授《プロフェッサー》ならかまわないが、判事は生きた人間を裁くんですから、もう少しはくだけて明るさがあってもいいと思うんですがねえ、と、私の話相手をしている安井という判事は言うのです。人間らしくとはどういう意味か知らんがあの人は心が優しくて同情心がなかなか深いぜ、司法官としては立派なものだと思うがねえ、と総務部長が答えているのです。
「もちろん棚田さんの人格については云々《うんぬん》しませんさ! しかし僕はあの人は道を誤られたんじゃないかと思うのですよ。あの人は作曲家になって自分一人の天分をコツコツと掘り下げて行くべきはずだったと思うんです。芸術家として生きるように、運命づけられた方じゃなかったかと思うんですがね。だからあの方は自分でも意識せずに、随分悩んでられるんじゃないでしょうか?」
「へえ! あの人は作曲をするんですか?」
 と、びっくりして私は口をはさまずにはいられませんでした。
「おや! あなたは御存知なかったのですか?」
 と安井判事の方がもっと驚きました。
「三浦|襄《じょう》といえばその方面では有名なもんですよ」
 と棚田判事の作曲上のペンネームを安井氏は挙げました。
「我々のようなガサツな人間にはわからんですがね、その方には素晴らしい才能を持ってられるらしいですよ。もう大分発表してるんじゃないでしょうかね?」
「へえ、そいつは知りませんでしたな。そういう才能を持ってたんですかねえ? ……あの人が!」
 と私は眼を円《まる》くしましたが、その瞬間にいつか大村で聞き流した、あの言葉を思い出さずにはいられなかったのです。
「今音楽学校の教授のリーゼンシュトックさんが……」
 と、最高検の土井検事が口をはさみました。
「独逸《ドイツ》へ帰って来ていられるんですがね。今夜我々と会食した後で、ピアノを聞かせて下さることになってるんですよ、どうです、その時リーゼンシュトックさんに棚田さんの作曲を一つ弾いてもらおうじゃありませんか? あなたも御一緒にいらっしゃいませんか?」
「ああそれがいい、それがいい……お待ちしてますからいらっしゃいよ」
 と、ほかの連中も賛成してくれて、結局一同に勧められて、私もその晩の会食に出席することになったのです。リーゼンシュトックという教授がどういう人であったか、ということは、私なぞより読者の方が詳しいでしょうから、余計な冗事を並べたてる必要もないでしょうが、教授がドイツ一のピアニストとして、ヒットラーに追われて、グレゴール劇場の指揮者から上野の音楽学校の教授に抜かれてから、もはや何年くらいになるでしょうか。日本の楽壇に沢山の弟子を送り出して、日本人の奥さんを持ち、自国語同様、巧みに日本語を操り、そして東洋の風習を愛し切っている、この七十に垂《なんな》んとする老教授が、日本に骨を埋
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