なんだ間数もたった十ぐらいかと思われるかも知れません。私はただ外から覗いただけですが、それでもおそらく十七、八間ぐらいはあるのではなかろうかと想像しました。ですから私の想像したところは点線で現しておきましたが、ともかく、一藩の家老の邸《やしき》ですから、昔はもっと広かったのを方々取り毀《こわ》したのかも知れません。私の絵図はなってませんが、台所でも座敷でも天井が高く長押《なげし》は大きくいずれも時代の煤《すす》を帯びて十畳ぐらいの広さはありそうに思われました。おまけに背後の杉の森が天日を遮《さえぎ》って真っ暗に被《かぶ》さってその陰惨なこと――前に私は家屋全体が陰気な暗さを漂わせていると言いましたが、陰気というよりも陰惨といった方が、むしろ適当だったかも知れません。これほどまでに陰惨な家というものを、まだ私は見たことがないのです。祖母の妖怪話が頭に沁《し》みついているせいか、どこかで啾々《しゅうしゅう》として鬼が哭《な》いているといったような、屋の棟三寸下るといったような、古めかしい形容詞でも使いたくなるくらいの薄気味悪さを感ぜずにはいられなかったのです。
家の回りを歩いて、私が※[#ローマ数字2、1−13−22]としるしをつけた北向きの座敷の前あたりへ来た時に――この部屋は杉の木に前を掩《おお》われて、陰惨な家全体の中でも殊《こと》に陰気くさく、昼間でも幽霊でも出て来そうなくらい、暗い部屋でしたが、この部屋の隅に黒光りのするのが横たわっていたのです。
「おや、あれはピアノじゃないですか?」
びっくりして私は足をとめました。
「誰のです? あれは」
「ここは旦那《だんな》様のお部屋でして……」
と老爺《ろうや》を立ちどまりました。
「旦那様が帰んなすった時にお弾きになるでがす。旦那様アもう一つ名古屋にも持ってござらっしゃるだが、とてもお好きだで、ああやって大事にしまってあるでがす。お帰りになった時しょっちゅう鳴らしなさるだで」
「奥さん?」
「いんね、旦那様でがすよ」
「ほう、棚田さんがねえ、ピアノをねえ、ちっとも知らなかったが……へえ! ピアノをねえ!」
爺《じい》やの言うのには、昨年の暮れも棚田夫婦は半年も滞在していたと言うのです。自分はよくわからぬが、何かお役所で面白くないことでもあったとみえて、お役人を止《や》めるとか止めぬとか……御夫婦で半年もここに暮していられたが、その間も旦那様は毎日のようにピアノに向っていられたというのです。
「何をそんなに弾いているんだね?」
「さあ、わし共にゃサッパリわからねえでがすが」
と爺やは歯のない真っ黒な口をあけて笑いました。
「旦那様は譜をお作りになるでやして……それでピアノをお弾きになるでがす」
「へえ、棚田さんがねえ――」
と相槌《あいづち》は打ちましたが、もちろん私にも音楽の趣味も何もあったものではありません。ただ裁判長として、松島事件を裁いた厳《いか》めしい人の隠れた一面を覗《のぞ》いているような気がして、頷《うなず》いただけでした。
「せっかくお訪ね下せえやしても何のおかまいもできましねえで……お上がんなすって、お茶の一つも上がって下さりゃ、旦那様もお喜びになると思うだが」
勧める老爺に別れを告げて、やがて私はまた竹藪《たけやぶ》に沿うた坂を下って、田圃《たんぼ》の傍《そば》の庚申塚《こうしんづか》のある道や、子供の頃|笹《ささ》っ葉《ぱ》を持って蛍《ほたる》を追い回した小川の縁へ出て来ましたが、立ちどまって振り返って見ると――眠ったような森や石垣の上に、この四、五十年来、何一つ殖《ふ》えたものもなければ減ったものもなく、相変らず城のような棚田の家を眺《なが》めていると、私までが三人の子供の父親でもなければ医者でもなく、まだあの頃の洟《はな》っ垂らしのような錯覚が起ってきてならなかったのです。
四 狂想曲
大村の話は私よりもっと興味が深かろうと思いましたから、帰りは静岡へ寄って老父や老母相手に一齣《ひとくさり》大村の懐旧談に花を咲かせました。もちろん名古屋にいる棚田判事へも懐旧のあまりお留守中にお宅へ伺って、爺《じい》やの案内でよそながら昔を偲《しの》んで来た旨の簡単な手紙を出しておきました。判事からは返事が来て、御光来の旨は留守番の老爺《ろうや》の知らせによって承知していたが、お上がりになってお茶でも飲んでって下さればよかったにと、妻とも語り合った次第、もし当地方へお出かけの節はぜひ一度お立ち寄り下されたく、自分上京の折は一度拝顔を得て、昔話でもいたしたいと思っておりますという、儀礼的な返事が来たように覚えていました。が、もちろん私の方から名古屋へ行く折もなければ、先方がわざわざ訪ねて来るほどの用件もありませんから、そんな訪問がお互いの疎
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