場があったり、僧が怪死したりした、その同じ因縁の池だということには、頓《とん》と気づかなかったのです。

      三 大村の留守宅

 青年が私の家に泊っていたのは、三日間くらいのものだったでしょうか? 珍しい人が訪ねてくれたというので、父も母も大喜びで帰る時には、苺《いちご》、茶、乾魚といったような土地の名物を持たせてやりましたが、やがて先方からも、大村の名産なぞを送って来たように覚えています。当方は思い出したように、大村の話、棚田のうわさで持ち切りでしたが、元々そう親しいという間柄ではないのですから、いつかまた往き来もなくなって、そのまま五年、十年は過ぎ去ってしまったように思われます。ただ思い出したように、手紙の往復だけは続けていたようでしたから、その十年ばかりの間に青年が、大学の独法を出て、司法官試験にも合格して、大阪で試補をしていること、やがて本官に登庸されて、今では判事として、大阪地方裁判所に勤めていることなぞも承知していました。ある時、私が静岡へ帰ってみましたら、こたつの上に袴地《はかまじ》を並べて、楽しそうに父母が相談しているのです。
「何です? それは」
 と聞いてみましたら、
「棚田の息子が結婚するんでお祝いに送ろうと思ってね。岡山とかの大きな商人の娘と結婚するという話だが」
 という父の返事でした。
 先方には年老いた母親があり、私の方には老人夫婦がいるために、昔|気質《かたぎ》の義理深く、時々はこういう知らせも寄越《よこ》していたのでしょう。そして時々は私の耳へもはいっていたのでしょうが、その頃は私が西大久保《にしおおくぼ》で医院を開業してから、もう十五、六年ぐらいは経っていたかも知れません。十四を頭に男の子ばかり三人もあり、患者は一日三、四十人近くも詰めかけて、とても一人では往診も何も間に合ったものではないのです。医員も殖《ふ》え、看護婦も多数い、女中が来、乳母が来、書生や下男《げなん》が殖えて、私が静岡の親を顧みるのも、二月《ふたつき》に一度、三月《みつき》に一度……この頃はまことに稀《まれ》になってきました。したがって棚田という名前も、以前ほどは入ってもきませんでしたが、棚田裁判長という名が、新聞に華々しく現れるようになったのは、何でもその頃ではなかったかと思います。その時分、憲政会という加藤高明の主宰している大きな政党があり、その政党に箕村数人《みのむらかずと》という有名な清節の長老があって、たびたび大臣も勤めた人でしたが、どういう魔が射したものか、この長老が大阪の松島という遊廓《ゆうかく》の移転事件に連座して、疑獄を惹《ひ》き起し、松島事件として一世を騒がせたことがありました。この事件に棚田判事が抜擢《ばってき》されて、裁判長として法廷に臨み、被告を懲役三年半に処す! と厳酷な刑を宣言しているところなどが、新聞を賑《にぎわ》せていたのです。
 当年の屋敷の青白い子が、今では堂々たる裁判長に出世して、大政党の長老の罪を裁いているのに、よほど感慨を催したとみえて、たまに子供を連れて、静岡の隠居所へ行ってみると、
「どうだ、なかなか、えらいもんになったじゃないか、あの子も。……こうしてみると、ついこないだまで洟《はな》を垂らしていた坊主とはどうしても見えんて」と、父は眼を細くして一度読んだ新聞を飽かずに、何度でも眺《なが》めているのです。
「そりゃあなた、この子だって東京へ帰って聴診器を持たせたら、立派な先生様ですもんな。親はいつまでたっても子供を五つ六つにしか考えませんけれど」
「そうかそうか、なるほどなア。子供が大きくなるのはわかっても、親は自分たちの年を取るのはサッパリわからんもんだのう」
 と笑い話になってしまいました。が、
「棚田のお母さんもさぞお喜びでしょうな?」
 と聞くと、
「おや、お前はまだ知らんかったかな? あの人はもう大分前亡くなってしもうたが。おいおい、あれはいつ頃だったかいな? 棚田のお母さんの亡くなったのは」
 と父は母に記憶を求めているのです。その時初めてこのお母さんも他界していることを知ったことでしたが、父親の死が変死でなかったように、この母親の死もまた何の不思議もなかったように覚えていました。
 その頃に一度私は大村へ行ってみたことがあるのです。と言っても、わざわざ出かけて行ったのではありません。ちょうど長崎医大で開かれた学会へ出席したついでに、長崎からは眼と鼻の先ですから、足を伸ばして大村まで行ってみたことがあるのです。
 駅前の讃岐《さぬき》屋という旅館へ鞄《かばん》を預けて、昔私が通っていた小学校や、その学校の前から街道続きで、昔の藩主の城跡や、仲間とよく遊んだ老松の海風に哮《ほ》えているお城下の海岸や、私の家が住んでいた上小路の旧宅なぞへ道を辿《たど》って
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング