の妻が寄り添って、頻《しき》りに母を慰めているのです。小作人は長い竿《さお》を持って、池の中を歩き回って、頻りに竿を突っ込んで、手応えをはかっているのです」
 両股《りょうもも》のあたりまで、真っ青な水の中へ浸けて、腹や足一杯に藻草《もぐさ》を絡ませながら、竿を立てていた小作人が、その感触でわかるものでしょう、突然に顔色を変えました。見ていた父も母も小作人の妻も、その方へ駈《か》け寄って行きました。今でも息詰まるようなその一瞬間を、青年は忘れることができないのです。しかも、次の瞬間、小作人は真っ青な顔――池の水よりもまだ真っ青な顔をして、そうっと竿を岸の方へ何か重い物体を押しやっているように……たちまち竿を棄てて、小作人の手を合わせるのが見えました。
「お、お前!」
「お、お嬢様!」
 金切り声が一時にわき起って小波《さざなみ》をたてながら、そこへ姿を現したものは! ……はだけた着物の間から白い足……手……蛇《へび》のように解けた髪の中に、閉じた眼が……泣き伏しながら着物の濡《ぬ》れるのも厭《いと》わずに飛沫《しぶき》を挙げて屍骸《しがい》に縋《すが》りついた母と小作人の妻と……。
「み、美代や、どうしてこんな浅ましい姿に」
「お嬢様、なんてお情けない、お嬢様! そんならそうとなぜ一言……」
 と、おろおろ声の中に、今でも青年の記憶に残っているのは、父が母と小作人の妻の背後に突っ立ったまま、冷然とそれを見下ろしている姿だったのです。冷然といったのでは、旨《うま》く言い現せなかったかも知れません。それよりも青年が今までに見たこともないような、烈《はげ》しい叱責《しっせき》を加えている姿といった方が、この場の光景にふさわしい言葉だったかも知れません。
「バカもの、バカもの、この大バカものめ! 恥を晒《さら》しおって! それが親への見せしめか? 死んで親に面当《つらあ》てしようという気か? 厭《いや》なら厭だと、なぜ初めから言わん? 気が向かんとなぜ言わんのだ!」
 しかも父は涙を溢《あふ》らせながら、じだんだ踏んで口惜《くや》しそうに、呶鳴《どな》りつけているのです。ふだん姉を可愛《かわい》がって、荒い言葉一つかけたこともない父が、人前もなくこんなにも罵《ののし》りつけているのは、姉の死を悼《いた》む父の痛恨の一種だったかも知れません。
 しかも、突っ立って呶鳴っている父を制止しようとするでもなく、姉の屍骸に取り縋って泣いている母と、小作人の妻と……なぜ姉が死んだのか? そしてなぜ父があのように怒り切っているのか? それらの原因は一切わからぬながらに、青年には今でもまだその時の悲惨な光景を、忘れることができなかったのです。寒い朝でした。西九州ではめったになく酷《ひど》い霜の降った、寒い朝だったことまで、ありありと頭の中に刻み込まれていました。
「そして今でもまだあなたは、なぜ姉さんがそんな自殺をなさったのか、そのわけがわからないのですか?」
「わからないんです。迂闊《うかつ》なようですが、今でもサッパリ見当がつかないんです。淋《さび》しそうな顔はしていても、父でも母でも姉のことは決して口にしませんし……元から無口な父でしたが、それ以来、一層口数が尠《すくな》い人になってしまって……余計なことを言い出して、親の暗い顔を見るのは厭ですから、僕も何にも言いませんし……おまけに小作人の妻まで、間もなく病気で死んでしまったもんですから……」
「そうですか、あなたにお姉さんがおありだということも、私は知りませんでしたし、ましてそういう亡くなり方をなさったということも……あなたが一高へおはいりになった時は、さぞお父様もお喜びだったでしょう」
「父はそのずっと前に亡くなっているのです。姉が死んでから、三、四年もたってから死んじまったんですが」
「それからお母様とずっとあの家に」
「そうです」
「へえ! よくまあ淋《さび》しくないもんですね」
「馴《な》れてますから何ともないですよ」
 と、青年は含み笑いを洩《も》らしました。そしてこういう哀れっぽい話は、止《や》めてしまいましたが、およそ、これらの話も、晃一郎君は何も自分から順序だて、私に話して聞かせようとしたのではありません。私の問いに答えて重い口からポツリポツリと……それを私が今記憶を纏《まと》めてみたに過ぎないのです。
 総じてこの青年は、元気そうな表面に似ず、内気な性質らしく、年にも似合わず落ちついていましたが、そのせいか時に陰気くさくさえ見えることがありましたが、そうした性格が内の面にこもっている憂鬱《ゆううつ》や、悲しみなぞといった心の動きを、あまり表面へ現さなかったものではないかと思われました。が、いずれにせよ、話を聞きながら、その時私は、青年の姉が入水《じゅすい》した池が、昔仕置き
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