した幼時の思い出の数々を私は持っています。が、村の小学校の四年生の時、父が東京の本省へ転勤になったために、この草深い田舎の生活を棄てて私は東京へ出て来ました。その後二年ばかりもたつと私はさらに父の転任につれて長野へ行き、前橋へ行き、浦和へ行き、この浦和で祖母は七十六歳の高齢で世を去ってしまいました。もちろん大村を離れて以来、口へ出してどうのこうのと、棚田のうわさを言ってたわけではありません。が、恐怖は身に沁《し》みていたとみえて、大村を立ち去ったことを――というよりも上小路の家を立ち去ったことを、しみじみ喜んでいる風に見えました。
「そんなことをいうと、お前はまたお祖母さんをバカにするかもしれないがね。あの時分は夜が明けても、ほんとうに何だか鬱陶《うっとう》しい厭《いや》な気持がしてね、気のせいかもしれないけれど誰の顔を見ても何だかこう……気のめいりそうな憑《つ》きものでもしたような顔をして朝から日暮れ方みたいな気がしたよ」
 と心から吻《ほ》っとしたように、祖母はザブリザブリと湯槽《ゆおけ》の中で顔を洗いながら念仏を唱えています。
 さて、私が絶えて久しい棚田の晃一郎氏に逢《あ》ったのは、それから何年くらいもたった時分だったでしょうか? その頃には、父も退隠して、最後の任地であった気候の穏やかな静岡の郊外で、悠々と余生を送っていました。私も大学を卒業して大学病院の実習も終り、一人前の医師になって、久しぶりで静岡の父母の家へ遊びに行っていた時ではなかったかと思いますが、一遍お訪ねしろ、お訪ねしろと母からもやかましく言われていますが、なかなかそんな暇もないんですからと、夏休みで大村へ帰る時にわざわざ晃一郎氏が訪ねて来てくれたことがありました。
 子供の時分は色白な顔をしていたようでしたが、今逢う晃一郎氏は痩《や》せ形の浅黒い見るからに凜々《りり》しい一高の学生になっているのです。文科の乙二年生だということでしたが、お父さんはお丈夫《たっしゃ》か? お母さんもお変りはないかなぞと父母も珍しがって歓待に努めました。長らく県下の郡長なぞを勤めていた、お父さんはもう五、六年も前に世を去っていると聞いて驚きましたが、話を聞いたところでは、九州の辺鄙《へんぴ》な城下町の、殊《こと》に郊外の昔の武家屋敷なぞには大した変化もなく、昔のように淋《さび》しいあの大きな屋敷には、今では母親と女中と小作人夫婦がいるだけだということでした。慣れているとみえて、晃一郎君は別段淋しそうな様子もしていないのです。
 どうせ暇で遊んでいましたから、私も晃一郎君の話相手を勤めて、幼い日を送った思い出の土地のことなぞを何くれとなく語り合ってみましたが、今でも私の記憶に残っているのは、晃一郎君自ら自分の家に絡まる、昔からの妙な伝説に触れた時のことでした。
「どういうのか僕の家には、昔から色んなうわさが伝わっていましてね、あすこの家は一代に変死人が必ず一人は出るとか、幽霊が出るとか」
 と、慨嘆的な幾分|嘲《あざけ》るような調子でした。もちろん私たちは大村土着の人間ではありませんし、まさかそんなうわさ話なぞは知らないと思ったのでしょう。が、さりとて別段それ以上のこまかしいことを言い出すでもなく、何かのはずみから、ただ青年らしい若々しい慨嘆口調で言い出したに過ぎないのです。
「でもオヤジだって、そんな妙な死に方なんぞしてやしませんし……ですからそんなバカバカしいうわさよりも、今でも僕にわからないのは……」と言おうか言うまいかという風に青年は考え深い眼をしました。
「姉の死んだことなのです」
「へえ、あなたに姉さんがおありでしたか? ちっとも知りませんでしたねえ」
「あったんですよ、子供の時から脇へ預けてありましたから、あなた方は御存知なかった」
 と、青年は淋しげにほほえみました。親の許《もと》へ帰ったのは、その姉が十三の年だというのですから、もう私たちが大村を立ち去った後のことだったのでしょう。なぜよその家へ姉が預けてあったかなぞということも、もちろん青年は言いません。
「……ちょうど姉が十七の年だったんですがね。僕は姉が父とそんな深い諍《いさか》いをしたということも知りませんでしたが、ある朝僕が起きて見たら、家の中がいつもと違っているんです。母も座敷にいなければ、父もいません。おまけに、小作人夫婦もいないのです。築山《つきやま》の向うで……池の方で人声がするような気がして、僕は起き抜けのまま、寝巻き姿のままで行って見たんです。父も母も小作人夫婦も、みんなそこにいるんです。池の中に大きな石が、二つ三つ顔を出しています。父はその石の上に乗って水の中へ顔を浸けんばかりに、池の中を覗《のぞ》き込んでいるのです。母は水際にしゃがんで、眼頭《めがしら》を抑えています。そして小作人
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