の》いて私の眼前に立ちはだかっていた人波が一時に崩れ立った。
その人|雪崩《なだれ》に危うく突き倒されそうになって、身を替《かわ》した途端、崩れ立った人垣の間から私は、見るべからざる物を眺めてしまったのであった。それは往来の、丸められた蒲団の下からムクムクと起き出した女が――ボロボロに焼け焦げた着物の恰好から、私も確かにそれを年増の方の女だと見たのであるが――突然に泳ぐような足取りで、フラフラと立ち出でて、二足三足歩み出したかと思う間もなくたちまち、バッタリ倒れて、
「いけねえ、いけねえ! もうみんな助かっていると言うのに! お内儀《かみ》さん! 動き出しちゃいけねえじゃねえか!」
と叱りつけるようにして、その後から一人の男が大急ぎで蒲団を広げて追っ駈けてゆくところであった。
時間にして、わずか五秒かものの十秒とも経たぬ瞬時の出来事なのであったが、私の生涯忘れることのできぬ映像を焼きつけられたのは、立ち上った時のそのお内儀さんの顔であった。頭髪も眉毛も皮膚もすっかり爛《ただ》れ落ちて、頭の皮が剥《は》がれてしまったと見えて顔頭の区別もなくただベロンとノッペラボウに腫れ上って、もう視覚も失われていたのであろう。あらぬ方へ向ってフラフラと踏み出した、その刹那《せつな》の顔であった。
思わず私は、眼を閉じた。しかしそれも瞬間! 倒れてパッと上から蒲団が被《かぶ》せられたと見ると、怖いもの見たさで一遍崩れ立った人垣はまた犇《ひ》し犇しと廻りへ取り囲んで行った。方々から啜り泣きの声が一層烈しく湧き起った。
「あねえになっても、やっぱり妹さんの事が気に懸《か》かると見える。なむあみだぶ! なむあみだぶ! お内儀《かみ》さん、案じることはねえだぞい! お前《めえ》さんの一念だけでも妹さんはきっと助かるぞい! なむあみだぶ! なむあみだぶ!」
と口の中で唱名《しょうみょう》を称えているお婆さんもあった。
私はその夜着いたばっかりで、妙な抑揚のある土地の言葉に馴染《なじ》みがなく、人々の叫ぶ言葉の意味がよくわからなかったが、おそらく医者や病院の名を口々に呼んでいたのであろうと思われる。振り翳《かざ》される提灯《ちょうちん》の灯がますます殖えて、巡査や医者も駈けつけて来たらしく、人出と喧騒は刻一刻とその度を増してきた。懐手《ふところで》をしていた私の手に、突然袖口から金氷のように冷たい物が触ってきた。場合が場合だけに思わず竦然《ぞっ》として振り向いたが、そこには君太郎が大きな眸《め》に涙を一杯溜めて、訴えるように私を振り仰いでいたのであった。
「見てたのかい?」
と聞いたら、
「ええ」
と睫毛《まつげ》をしばたたいたが、
「助かるでしょうか? どうかして助けて上げたいわ」
と潤《うる》んだ声で呟《つぶや》いた。
無言で頷《うなず》きながらふところの中で君太郎の華奢《きゃしゃ》な手を握りしめていたが、私もこの時ほど君太郎をいとおしく感じたことはなかった。
この世の中というものは、何時《いつ》思いも掛けぬ災難が降りかかってくるかわからぬ、一寸先は闇の世界だから、なまじっか、野心なぞ起さずに、もう東京へもどこへも行かないで、どこか北海道の涯《はて》へでも行って君太郎と一緒に世帯を持って生涯を送ってしまおうかと、胸の迫るような感慨に打たれたのであった。
そして、今手を握り合って佇んでいる君太郎と私との関係が芸妓とお客とか、芸妓とその情人とか言ったようなものとはどうしても考えられず、私にはまるで頼りどころない、妹の手でも曳《ひ》きながら、この厳粛な人生の出来事を凝視《みつめ》ているような心地がしたのであった。そんな思いを胸一杯にたぎらせながら、私はそこに茫然《ぼうぜん》と突っ立っていた。
「もう運ばれて行ってしまったわ。さあ、はいりましょうよ。ね」
と、不仕合せな人たちの方へしゃがんで掌を合せていた君太郎に促されて、私もようやく座敷へ戻って来たが、酷寒北海道の真夜中はおそらく零度を五、六度くらいは下っていたろうと思われる。
今までは気もつかなかったが、部屋へ戻って来ると一時に寒さが身に徹《こた》えてきてブルブルと胴震いがして、急には口もきけなかった。しかも口がきけなかったばかりか、もう眼が冴えて、床へ潜り込んでもなかなか眠れるものではなかった。ただ眼先にちらついてくるのは、たった今のあのフラフラと立ち上った時の顔も頭も区別のつかないノッペラボウなお内儀さんの姿ばかりであった。
「……どうしても眠れないわ。ちょいと! 起きて下さらない? ね、起きてお酒でも飲んで話してましょうよ」
と、これもいったん床へはいった君太郎がムックリ起き上ったのを機会《しお》に、私も蒲団を離れてしまった。
ごうごうと音だてて燃え盛っているストーヴの合
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