に分けて埋めたという。ところが代官鈴木三郎九郎重成は、民心の動きに非常に敏感で、暗に亡ぼされた宗徒に同情する人々の心情を慮つて、切支丹の供養碑を立てて、そこに埋められた宗徒たちの追善供養をしたという。碑文は、経文からとつたものらしく、すこぶる難解であるが、仏教の教養よりすれば、仏性は賢愚平等にあり、死んでしまえば、たとい鬼理志丹といえども供養しなければならぬ、という意味のようである。ただ切利支丹を、鬼理志丹[#「鬼理志丹」に傍点]としたところなどに、その本質はうかがわれるが、いずれにしても、このような碑を立てた鈴木重成の人物には、共感出来る。記録によれば、
「……重成は郡民の窮状を目のあたりに見ては、哀憫の情を禁ずることが出来ず、承応二年遂に意を決して江戸に上り、直接老中に謁見してるる郡情を[#「るる郡情を」は底本では「ゐる郡情を」]具陳して、減石の正道なることを誠意歎願したが、又もや不許可となつた。この上は一死もつて郡民塗炭の苦しみに代る外ないと、同年十月十五日赤心を披瀝した上向文を遺して、駿河台の自邸で自刃してしまつた」
 とある。その人物のほどもうかがわれるし、この供養碑を建てた
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