た! これ食べない?」
 彼は慌《あわ》てて、今|噛《かじ》りかけていたベビーゴルフのボールほど大きい梅漬を、めんつ[#「めんつ」に傍点]の中へ投げ込んで、股引《ももひき》でちょっとこすった手を彼の女の前へ差し出した。彼女はその、汚くよごれて、指節の高く太い彼の掌を、心中で「なんてグロテスクな手だろう」と思いながらその上へ、ポトリと、一個のチョコレートを落し与えたのである。
 彼氏は、北方を指して、あの遠く一塊の白い雲の下にあたる真白いのが立山《たてやま》である事、遥かな西方に淡く浮びあがったのが加賀の白山《はくさん》である事や、長い尾根続きの端に飛び騰《あが》ったような嶺が笠ヶ岳である事や、重畳《ちょうじょう》した波濤のような山々に就いて説明をした。
「ジャンダルムっての、あら素的《すてき》な岩壁ね、アンザイレンしましょうよ! そしてトラヴァースしてみない?」
 彼女はジャンダルクのように宣言した。
「此処《ここ》はお前様《めえさま》たちにゃ危ねえだ」
 彼は言った。が、彼氏は、彼女の希望に対して果断な決心を持ってザイルを解き初めた。
 彼氏の胴から彼女の胴へ、そして彼という順序に鮮
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
百瀬 慎太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング